諸橋氏はシャブの底なし沼に落ちていった(写真:アフロ)

 2005年3月、28歳の若者が渋谷のスクランブル交差点で、傘を振り回して交通整理の真似事をしているところを駆け付けた警察官に取り押さえられ、その後、措置入院となった。覚醒剤の常用者で自身も売人、彼が覚醒剤で逮捕されるのは3回目だった。18歳で大学受験のために福島県から上京した若者は10年後にヤクザになっていた。

 東京に駆け付けた母親は、背中に入れ墨が入り、うわごとを呟き続ける息子の姿に言葉を失った。ヤクザを破門された彼は、母に連れられて福島県いわき市の実家へ戻った。

 それから8年後の2013年、彼はなんと司法試験に合格していた。現在も東京で弁護士をしている。彼はいったいどんな人生を送ってきたのか。『元ヤクザ弁護士 ヤクザのバッジを外して、弁護士バッジをつけました』(彩図社)を上梓した弁護士の諸橋仁智氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──「覚醒剤は、僕の人生に圧倒的な影響を与えた」と書かれています。

諸橋仁智氏(以下、諸橋):友人に薦められて覚醒剤に出会いました。最初のうちは一週間に1回程度でしたが、すぐにのめり込み、それが生活の中心になっていきました。当時はまだ売人ではなかったので、「金曜日になったら買おう」と考えて、それを一週間の励みに過ごしていた。

──諸橋さんは当時、福島県から東京に出てきた大学受験浪人でした。覚醒剤は高かったのではありませんか?

諸橋:覚醒剤の入った袋を「パケ」と呼びますが、1パケがだいたい1万円です。学生にも無理な金額ではありません。お金がないときは、友達とカネを出し合って購入しました。それに、1パケでもちまちま使えば1週間くらい使うことができた。

──当時は、高校生が学校のトイレで使うほど覚醒剤が流通していたと書かれています。

諸橋:私は高校生時代までは福島にいたので、自分の周りにそういう状況はありませんでした。ただ、東京の予備校に来て同年代の人たちと仲良くなると、東京の不良は高校生の頃からよく学校でやっていたと聞きましたね。

 覚醒剤にハマると、次第に他のことに対する興味を失っていきます。興味を失うばかりではなく、キマっているときは過度に集中するんです。人から声をかけられても返事もしなくなるし、トイレに行くことさえ忘れてしまう。

 時間の概念さえ喪失してしまう。他のことに意識を移すことができなくなるほど集中してしまうのです。仲間がキマっているときは話しかけると怒られるので、声をかけないようにしていました。

──「1997年、二十歳のころ、バイト先の雀荘でアニキと知り合った」「アニキは27個年上だった」と書かれています。なぜヤクザの世界に諸橋さんは入っていくことになったのでしょうか。

諸橋:浪人生として上京して予備校に通っていましたが、次第に仲間たちと遊びに興じていく過程でアニキと出会いました。アニキはヤクザでしたが、私には優しくていい人でした。

 アニキは武蔵境の親分の実子で、堅気の人たちも含めて街中から慕われていた。アニキは覚醒剤もやらないし暴力もふるわない。とても顔が広く、歳上からも歳下からも頼りにされ、いろんな人たちの関係を調整するスマートな人でした。

 アニキと一緒にいるうちに、次第に「ヤクザになるのもいいな」という思いを持つようになりました。

 そんな時に、住んでいたアパートで私が火事を出してしまったんです。ちょうど学費も使い込んでいたタイミングで。その結果、母親と大ゲンカになり、最終的に関係が決裂してしまった。

 それで予備校を辞め、アニキに連絡して事情を説明し、「面倒をみてください」と頭を下げました。私がアニキの若い衆になった瞬間だと思います。