大日本帝国大元帥だった昭和天皇裕仁(宮内庁提供)

(フォトグラファー:橋本 昇)

 1945年8月15日の正午、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」という言葉で広く知られる昭和天皇の【終戦の詔書】の玉音放送がラジオから流れた。

 私の母もそれを聴いていた一人だ。皆で空腹を抱えながらぽつねんと立って聴いていたという。あの日も朝から蝉が鳴き騒ぎ、やけに空が青かった、と母は語った。

「陛下の天に昇るような甲高い声。まるで和歌を詠んでいるようで何を言っとるのかさっぱり分からんかったね。でも戦争に負けたということだけは分かったとたい。正直ほっとしたね。今晩からは電気も点けられるし、もうB29の空襲もない。それが嬉しかった」

小さな女の子にも分かっていた「日本は戦争に負ける」

 戦争中、母は戦闘機に追っかけられた経験があった。

「田んぼのあぜ道を帰宅していたら突然、空襲警報のサイレンが鳴って、どこかに隠れにゃいかんと思った途端にアメリカのグラマンが私をめがけて機銃掃射してきたんよ。慌てて田んぼの溝に飛び込んだんやけど、今度はB29から爆弾が私のすぐ傍に落ちてきたんよ。運よく不発やったから助かったけれど、あれが爆発していたら、今のあんたもおらんてことやね」

 母が当時住んでいた九州・大牟田での戦争体験だ。ほうほうの体で逃げ帰った自宅は空襲で焼かれていた。この時のアメリカ軍による十字爆撃ではるか遠くまで真っ直ぐに家が焼かれていた光景は忘れられないという。

 終戦の2か月前のことだ。そして、乙女心にも「日本は負けるだろうな」と確信したらしい。

 母はその後、8月9日の長崎への原爆投下も目撃した。有明海越しに湧き上がるキノコ雲を「あれはなんじゃね?」とポカンと眺めていたという。

 そして戦争は終わった。

 あの昭和の戦争、国内300万人以上の命とアジアの人々の多大な犠牲を対価としてまで大日本帝国が突き進んだあの戦争とは何だったのか? 昭和の始まりから昭和20年8月の終戦まで、国民はどのようにして戦争の渦に巻き込まれていったのか?

 歴史の教科書だけでは当時の日本と日本国民の状況は想像し難いので、昭和の年表を国民生活の視点からざっとおさらいしてみた。