パリ万博における薩摩藩の出展の様子

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(17)「五代友厚①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66374
渋沢栄一と時代を生きた人々(18)「五代友厚②」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66375
渋沢栄一と時代を生きた人々(19)「五代友厚③」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66386

パリ万博と徳川慶喜の思惑

 1867年(慶応3)のパリ万国博覧会は、4月1日から10月31日まで開催され、初めて参加した日本を含め42ヶ国が参加し、会期中1500万人が来場した。1865年(慶応元年)3月、フランスのナポレオン3世は駐日公使レオン・ロッシュを通じて、幕府(14代将軍徳川家茂)に対して参加を要請した。当初、参加に消極的であったが、ロッシュの説得を受けて8月に至り、ようやく参加を決定した。パリ万国博に参加することで、フランスとの良好な関係をこれまで以上に築く重要な機会として捉え、また、幕府の権威を国内外で高めることを目的としたのだ。

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜

 また、この計画を引き継いだ15代将軍の徳川慶喜は、実弟昭武をパリ万国博覧会使節としてフランスに派遣し、かつ5年間留学させることを決定した。その目的は、江戸幕府を代表して将軍後継者の地位にある昭武を自身の名代として、各国の皇族や王族が参列するパリ万博に出席させ、その後に欧州各国を訪問することによって、幕府の権威を国際的にアピールするためであった。さらに、昭武を将来の指導者とするため、長期留学も計画していたのだ。 

徳川昭武

 しかし、幕府・慶喜の思惑は、密かにパリ万博ヘの参加を画策していた薩摩藩の存在によって、木っ端微塵とされてしまい、幕府の威信は地に墜ちてしまう。幕府の滅亡にも直結したパリ万博ヘの薩摩藩参加の道筋を開いた五代友厚の動向、そしてパリ万博の参加資格をめぐる幕府VS薩摩藩の激突の実相に迫りたい。