徳川慶喜 写真/akg-images/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(11)「徳川慶喜①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65801

将軍継嗣問題が勃発

 弘化4年(1847)、徳川慶喜は御三卿の一つである一橋家を相続したが、嘉永6年(1853)のペリー来航の直後に就任した13代将軍家定の継嗣決定をめぐる政争、いわゆる将軍継嗣問題に巻き込まれることになった。一橋慶喜を推す一橋派と紀州藩の家茂を推す南紀派が、家定の継嗣である14代将軍の座をめぐって対立し、幕府を二分するほどの政治問題と化したのだ。そして、この将軍継嗣問題は安政の大獄の一因となっていく。

 家定は暗愚・病弱とされており、とても子どもができる健康状態とは思えなかったため、12代家慶時代から次期将軍の問題は憂慮されていた。しかも、ペリー来航時に衆望を集めた水戸斉昭はいたずらに攘夷実行を声高に叫び、また実際の対外政略もペリーの要求にまともに回答せず、時間を稼いで諦めさせる「ぶらかし」戦法を唱えるレベルであった。そのため、期待外れの感は否めず、将軍継嗣問題が俄然クローズアップされる事態となった。

 将軍継嗣問題では、一橋派と南紀派が政争を繰り広げたが、一橋派の推進者は松平春嶽(福井藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)ら有司大名、水戸藩関係者(安島帯刀ら)、一橋家側近の平岡円四郎、老中阿部正弘、そして岩瀬忠震を代表とする海防掛らであった。彼らは英明・年長・人望の3要素を持ち合わせた将軍の下で、幕府権威の再強化を目指し、かつ自己の幕政参画を期待したのだ。

 記録に残る最も早い一橋派の運動は、嘉永6年8月10日、春嶽が阿部に慶喜を継嗣にすべきことを申し入れたことである。阿部は同意したものの、時期尚早と判断し、春嶽に口外することを戒めている。

松平春嶽

 一方で、南紀派の推進者は現状の徳川公儀体制の維持を図る譜代大名が中心であった。また、紀州藩附家老の水野忠央(妹は家慶側室)によって大奥工作が図られ、そもそも、慶喜の実父の斉昭を嫌う大奥を南紀派に取り込むことに成功した。

 なお、南紀派の領袖となる井伊直弼(彦根藩主)は、安政元年(1854)5月、また翌2年1月に老中松平乗全に具体的な名前は挙げなかったものの、将軍継嗣の早期決定の必要を伝達している。南紀派は血統の重視・外部意見の拒否・斉昭に対する嫌悪といった要素から結束していたが、当時においては、血統重視は当たり前のことであり、むしろ能力主義を唱える一橋派の方がイレギュラーであったのだ。