大覚寺の大沢池・天神島。写真/倉本 一宏

(歴史学者・倉本 一宏)

自らの力で運命を切り開く

 たまには大臣に上った人物を取りあげようか。『続日本後紀』巻九の承和七年(八四〇)七月庚辰条(七日)は、次のような薨伝を載せる。

右大臣従二位皇太子傅藤原朝臣三守(みもり)が薨去した。参議従四位下左大弁安倍朝臣安仁(やすひと)・式部大輔従四位下藤原朝臣衛(まもる)・散位従五位上藤原朝臣宗成(むねなり)・中務少輔従五位下笠朝臣数道(かずみち)らを遣わして、喪事を監督し護らせた。大臣は、参議従三位巨勢麻呂(こせまろ)朝臣の孫で、阿波守従五位上真作(まつくり)の第五子である。大同元年に主蔵正から次々に美作権掾・権介・内蔵助に遷任し、四年に従五位下に叙され、右近衛少将に拝された。弘仁元年に従五位上となり、次いで内蔵頭・春宮亮に任じられた。五年に重ねて従四位下を授けられ、式部大輔に拝された。次いで左兵衛督に遷任し、七年に兼但馬守を兼任し、俄かに参議に拝された。九年に春宮大夫を兼任し、十一年に従四位上を授けられた。この歳に正四位下となり、十二年に従三位を授けられ、権中納言に拝された。十三年に皇后宮大夫を兼任し、十四年に中納言に転任し、正三位に叙された。嵯峨(さが)天皇が譲位した後、宮中を辞退して嵯峨院に侍候した。天長三年に刑部卿となり、五年に大納言に拝され、兵部卿を兼任した。七年に弾正尹を兼任し、十年に従二位に授され、皇太子傅を兼任した。承和五年に右大臣に拝された。年五十六歳で、官にあったまま薨去した。参議従四位上春宮大夫右衛門督文屋朝臣秋津(あきつ)・民部大輔従四位下百済王慶仲(けいちゅう)を邸第に遣わし、詔を宣して、従一位を贈った。三守は早く大学に入り、五経を学び、嵯峨太上天皇が踐祚した日、皇太子時代の旧臣として、格別の栄寵を賜わった。性格は穏やかで、合わせて決断力があった。詩人を招き、酒杯を交して親しく付き合い、朝廷に出仕する途中で学者に会うと、必ず下馬して通り過ぎるのを待った。このことで、当時の人々は称讃した。三守の諸々の品行については、『公卿伝』に見えている。

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 三守は、左大臣藤原武智麻呂(むちまろ)の曾孫、参議巨勢麻呂の孫、阿波守真作の第五子として、延暦四年(七八五)に生まれた。藤原氏嫡流の南家とはいえ、巨勢麻呂が仲麻呂(なかまろ)と行動をともにして、藤原姓を除かれ、勝野鬼江で斬首されたこともあって、この巨勢麻呂流は没落していた。

 しかも、大同二年(八〇七)に起こった伊予(いよ)親王の変で、大納言雄友(おとも)が連坐して伊予に流罪となり、中納言乙叡(たかとし)も解官(げかん)されるなど、南家自体の権力も決定的な打撃を蒙った。従五位上阿波守に過ぎない真作の五男として生まれた三守の行く末も、本来ならば暗澹たるものであったに違いない。

 しかし三守は、自らの力で運命を切り拓いていった。若くして大学に学んで五経に習熟し、東宮主蔵正として東宮時代の神野(かみの)親王に仕え、その寵遇を得たのである。神野親王が大同四年(八〇九)に即位して嵯峨天皇となると、蕃邸の旧臣として殊に優遇された。従五位下に叙爵され、時期は不明だが、嵯峨皇后の橘嘉智子(かちこ)の姉である安万子(あまこ)と結婚した。後宮で典侍を務めた安万子との結婚が三守の運命を決定したことは、言うまでもない。右近衛少将・内蔵頭・大伴(おおとも)親王(後の淳和(じゅんな)天皇)の春宮亮などの要職を歴任している。

 弘仁二年(八一一)に二十七歳の若さで蔵人頭に補され、弘仁七年(八一六)に式部大輔から参議に上った。三十二歳の年であった。弘仁十二年(八二一)に三十七歳で権中納言に昇進するなど、その門流からは考えられないほどの出世を遂げた。