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(文:冬木 糸一)

 歴史の本、特に最悪の医療の歴史などを読んでいると、あ~現代に生まれてきてよかったなあと、身の回りに当たり前に存在する設備や技術に感謝することが多い。昔は治せなかった病気が今では治せるケースも多いし、瀉血やロボトミー手術など、痛みや苦しみを与えるだけで一切の効果のなかった治療も、科学的手法によって見分けることができるようになってきた。

 だが、そうしたいくつもの医療の進歩の中で最もありがたいもののひとつは、麻酔の存在ではないか。正直、麻酔のない世界には生まれたくない。切ったり潰したりするときに意識があるなんてゾッとする──現代の医療に麻酔は絶対絶対必須だ。そのわりに、患者に麻酔を施す麻酔科医の仕事は光が当たりづらい分野である。何しろ実際に手術や治療を担当することはめったにないから、麻酔科医という役割が存在することさえ知らない、あるいは「いや、いうて麻酔を打つだけでしょ?」ぐらいで、あまり意識しない人も多いかもしれない(僕も正直、こっち側である)

麻酔科医がいるから現代医療が成立する

 実際には、麻酔科医の仕事は超重要だ。確かに患者と麻酔科医が引き合わされるのは手術や治療が行われる数分前なので、患者の記憶に強くは残らないかもしれない。しかし、彼らが手術の前後から最中に適切な処置をし、待機を行っているからこそ、現代の医療が成立するのである──というわけで、本書『意識と感覚のない世界』は30年以上麻酔科医としての経験を重ね、時に700グラムの未熟児から、時には人間ではないゴリラまで、幅広い存在に対して麻酔を施してきた著者ヘンリー・ジェイ・プリスビローによる、自身の仕事についてのエッセイである。

 科学ノンフィクション的な麻酔についての化学的、科学的な紹介やその歴史についての記述と、麻酔科医として彼がこれまでどのような案件を担当してきたのか。そのたびにどう対処し、どのような難しさがあったのか。そして彼はピンチを切り抜けるたびに、何を学んできたのか──という、麻酔科医の日常がいい具合にブレンドされていて、読み終える頃には麻酔科医の仕事がどれ程大変なものなのかがよくわかるうえに、麻酔科医への強い感謝を覚えているだろう。

“麻酔科医にメディカルスクールで学んだことを忘れる贅沢は許されない。おそらく他のどんな専門医も、麻酔科医ほど基礎科学(解剖学、病理学、生理学、薬理学)および臨床医学の全分野(内科、外科、小児科、産科、場合により精神科)に精通し、他の想定しうるすべての専門分野にかかわる広範囲かつ包括的な知識を維持している者はいないだろう。”