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(文:首藤 淳哉)

 確かあれは夏木マリさんの舞台を番組スタッフと観に行った帰り道だった。
「カッコいい女の人、というと誰を思い浮かべます?」
若いスタッフに訊かれた。たぶん彼女は夏木さんのパフォーマンスに圧倒されていたのだろう。質問のかたちをとってはいるけれど、言外に「夏木さんほどカッコいい女性はいないですよね」というニュアンスが込められていた。

 もちろん夏木マリは文句なしにカッコいい。でもその時ぼくはあえて別の人物の名前をあげた。すると後輩からは「え?誰ですかその人」という反応が返ってきた。若い彼女が知らないのは無理もない。その人がこの世を去ってもう四半世紀が経つのだから。その人の名は「森瑤子」。1978年に作家デビューすると瞬く間に人気作家への階段を駆け上がり、1993年に胃癌のため52歳で亡くなった。彼女はバブルに沸く80年代を全力で駆け抜けた作家だった。

38歳で初めて小説を書く

『森瑤子の帽子』は、時代のアイコンだった作家の実像に迫った力作評伝だ。森瑤子は1940年生まれ。本名は伊藤雅代。後にミセス・ブラッキンとなる。

 教育熱心な父の薦めで6歳からヴァイオリンを習い東京藝大に入学するも、才能溢れる同級生を目の当たりにして挫折、詩人や画家の卵たちと新宿の風月堂に入り浸る青春時代を過ごす。卒業後、広告会社で働いていたところ、世界旅行の途上にあった無職の英国人アイヴァン・ブラッキン氏と出会い、24歳で結婚。長女出産を機に専業主婦となり、次女、三女にも恵まれた。

 彼女の人生が大きく動いたのは38歳の時のことだ。初めて書いた小説『情事』がすばる文学賞を受賞したのだ。イギリス人の夫と3人の娘を持つ35歳のヨーコが、六本木のバーで出会ったアメリカ人男性と恋に落ちる物語。夫との関係に倦み、次第に若さが失われていく不安や焦燥を感じながら、夫ではない男とのセックスを「反吐が出るまでやりぬいてみたい」という欲求に駆られるヨーコ。あけすけに性を語ることがためらわれた時代に森瑤子は新しい風を吹き込んでみせた。