「自分を許せる今このときに、俺は死にたい。日常に戻ったら、俺はまた薄汚い人間に戻ってしまう。恐ろしい。だから、今死ぬのが一番カッコイイと思ったんだ」。私も同感だった。

 自分が他の人より優秀であることって、そんなに大事なことだろうか。人と比較して勝ったからといって、それがどうしたというのだろうか。自分のしたことで誰かが助かり、誰かが喜ぶ。そう思える働き方って、幸せじゃなかろうか。

 皆を自主的・自立的に動けるようにし、それぞれが自分の頭で考えて適切に活動できるようにした、建設業の若者は、学校の成績上では「歩くコンピューター」に及ばないかもしれないが、皆が活躍できるシステムを提案したという意味では、ずっと知恵がある。

 私は感心して、その若者に賞賛の言葉を向けたら「いや、仕事でやっていることをそのままやっただけです。僕にはとても、あの人のマネはできませんから」と腰が低かった。私はさらに考え込んだ。

 ちなみに、実はその若者もタダモノではなかった。いくつかの暴走族の頭をさらに束ねるドンで、皆がバイクをうならせる中、自分はチャリンコ(自転車)で集団を先導するというツワモノ。彼がボランティアに連れてきた若者2人は、真っ黄色のトウモロコシ頭だった。高速モチつきを披露して、なかなかの活躍だった。

 人の力を引き出す。それこそが「力」なのかもしれない。それこそが「知恵」なのかもしれない。それはあいにく、学校で全くといってよいほど教えてもらっていないものなのかもしれない。そしてそれは、中国人の人たちがかつてうらやんだ能力であり、日本人が自らかなぐり捨ててしまった「力」なのかもしれない。

 世界に冠たるエコカーを作り、ウォークマンを開発し、デジカメやパソコンなど世界最先端を走っていたとき、中国の人たちがうらやんだ力を日本人は確かに持っていた。そしてその力をバカにし、「優秀」な人間による「リーダーシップ」とやらを尊び始めた頃から、日本は新しいものを作る力を失い、迷走を続けている。私は、時期のこの一致が、決して偶然ではないように思う。

 日本人はもう一度、この力を取り戻した方がよいのではないだろうか。「人の力」を生かす「力」を。