前回の記事(「世界初の『グローバル商品』は何だったのか?」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54441)で解説しましたが、世界初のグローバル商品は「綿」でした。しかしそうなるのは産業革命以降で、それ以前の綿花栽培や綿織物産業はインドや中国が本場でした。意外にもヨーロッパではそのような状況は生まれていませんでした。
そもそもヨーロッパは寒冷な地帯が多く、綿の栽培は地中海やイベリア半島の一部の温暖な地域に限られていたことが関係しています。
そのためヨーロッパには、主にイタリアにあるジェノヴァ、ピサ、ヴェネツィアといった海洋共和国の商人の手により中東から原綿が輸入されていました。
14世紀初頭には、原綿はヴェネツィアが手掛ける貿易の主要商品になりました。綿は、中東からヴェネツィア商人が輸入した商品のなかで、香辛料に次いで二番目に多額であったと推計されています 。
綿の紡績と機織は、まずイタリアで発展し、その後ヨーロッパの他地域にまで広まっていきました。例えば毛織物産業が盛んだったフランドル地方やドイツの一部です。これらの地域では、14世紀後半から15世紀にかけ、綿工業が繁栄していったのです。
しかし、中東との貿易はしばしば中断することがありました。一方、綿織物の需要はヨーロッパで高まっていたので原綿の価格は上昇しました。ヴェネツィアは14世紀にキプロス島を植民地にしますが、実はこれも、綿の一大産地であるキプロスを押さえるための手段という側面もあったのです。1500年には、キプロスは年間2000トンの綿を生産しており、1540年代には6000トンに達します。
このようにヨーロッパでは、まず地中海から綿が入ってきました。
それでもヨーロッパの織物産業全体で見れば、綿織物は18世紀になるまで主要産業ありませんでした。ヨーロッパの人々の基本的な衣類の素材は、何といっても毛織物だったのです。
綿産業で群を抜く中国とインド
それに対し中国では、綿工業は早くから大きく成長しました。政府だけで、14世紀中頃に2万2000~3万トンの綿を消費していました。それは、綿布に換算すれば2億2500万~3億ヤードになったと推計されています。
一方、インドの綿布を世界に広める役割を果たしたのはムスリム商人でしたが、同時代のイスラーム教国随一の勢力を誇ったオスマン帝国では、中国に比べて綿の生産量はかなり少なかったようです。というのも、人口自体が中国のせいぜい10分の1程度でしたから、ある意味当然のことでした。16世紀、アナトリア半島での綿生産は4200~7000トン、布地に換算するなら1300万~3500万ヤードでした。これは、17世紀末インドからオスマン帝国を経て、陸上のキャラバン貿易でヨーロッパに輸入される布地の約5分の1でした。