『ローマの休日』(1953)『黒い牡牛』(1956)『戦場にかける橋』(1957)『手錠のまゝの脱獄』(1958)『拳銃の報酬』(1959)・・・。

 どれもが1950年代を代表する名作。しかし、そのオリジナルフィルムのタイトルバックには本来あるべき映画人の名前がなかった。

 赤狩りの嵐吹き荒れるハリウッドで、1950年代、仕事を追われた脚本家が、その名を隠し、生き抜く姿を描く『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2015)が、現在劇場公開中である。

 「1930年代、大恐慌に苦しみ、ファシズムが台頭するなか、多くの米国人が共産党に入党した。ソ連とともに第2次世界大戦を戦うようになると、党員はさらに増加、1943年、脚本家ダルトン・トランボもメンバーとなった。しかし、冷戦時代が訪れ、米国の共産主義者に疑いの目が向けられることになる」

ハリウッド・テンと呼ばれた人々

 そんな字幕から始まるこの映画最初の舞台は1947年。HUAC(下院非米活動委員会)が映画人を喚問、共産主義者であるか否かを問う公聴会で証言を拒否したトランボなど10人が、「議会侮辱罪」に問われる。

 のちに「ハリウッド・テン」と呼ばれる人々である。

 不服とし、法廷闘争に持ち込むものの、結局、懲役1年の刑。ジョセフ・マッカーシー上院議員による赤狩り「マッカーシズム」の世が始まる1950年、ハリウッド・テンは投獄された。

 1951年、喚問再開。証言を拒否する者、仲間に密告された者など、300人以上が「ブラックリスト」に載り、失職など、社会的不利益を被ることになる。

 このとき、HUACを支持した「共産主義者やファシストから米国と映画産業を守るため」の組織「アメリカの理想を守るための映画同盟」の中心人物、西部劇の大スター、ジョン・ウェイン、多くの読者を持つ映画界のゴシップ・コラムニスト、ヘッダ・ホッパーが、映画の「敵役(かたきやく)」となる。

 さらに、仲間を「密告」した性格俳優エドワード・G・ロビンソンという存在もあるが、そうした「協力的証人」としてより知られているのがエリア・カザン監督。

 米国内に残るユダヤ人差別を告発した『紳士協定』(1947)で注目され、多くの名優を輩出することになる名門演劇学校アクターズ・スタジオを立ち上げた1人であるカザンは、1952年、仲間や友人11人を「売り」、米国映画界で生き伸びた。