「あの日」からもう2年が過ぎようとしている。地震と津波に襲われた広い地域の中でもとりわけ太平洋沿岸地域は、人と物の移動・移送のほどんど全てが流れる「血管」としての道路が寸断されたことで、発災直後の救難活動からして困難を極め、さらに細かく点在する避難場所それぞれに向けた支援にも濃淡がある状況をもたらした。

 そこからの復興についても様々に伝えられてはいるが、南北に何百キロメートルも広がる被災地を俯瞰した情報、復興プランの構築状況と、何よりその実現に不可欠な「道」の現況についてのリアルかつ全体を俯瞰するような情報は皆無に近い。

 以前もこのコラムで書いたように、私は福島から宮城、岩手、青森へと至る太平洋岸に沿って北上する、という企画を複数年にわたって実施した。十数年前のこの地域の生活感に満ちた情景の中を走り続けた記憶は今も鮮やかに残っている。だからこそ今、ようやく復興への動きが具体化する中で、その血流の幹線である「道」がどう結ばれ、どう使われているかを、自分の目で確かめたいと思った。

 福島第一原発の周囲は立ち入りが許されていないため、まずは東京から常磐道を一気に北上、磐越道の途中で一般道に降り、山間地を抜けて太平洋に面した岸辺へ、というルートを選んでこの旅を始めたのではあった。

 原発事故の避難指示区域を迂回したとはいえ、磐越道の船引三春ICから相馬市へと抜ける国道沿いには、除染作業による廃土を袋詰めにしたものをぎっしり並べた仮置き場があり、そこから峠を越えた先には「牛乳の里」であることを告げるJAの看板が現れる、という状況で、見えざる不安の広がりを痛感する。

 太平洋を望む岸沿いに出てからはひたすら北へ向かう道程となる。そこで目にしたものをどうお伝えしようか、いろいろ考えたのだが、ここはシンプルに南から北へ、我々が走った経路に沿って紹介してゆくことにした。地図と照らし合わせてそれぞれの場所を確かめつつ読み進み、我々と共に旅していただければ、より実感は深まるのではないかと思う。

 特に国土地理院がウェブサイトで公開している「平成23年(2011年)東日本大震災に関する情報提供」には、航空写真から地殻変動の状況まで様々なデータが掲載されているが、津波の浸水範囲も10万分の1と、さらに細かい2万5000分の1の概況図が、千葉県から青森県までにわたってダウンロードできる。デジタル標高地図も発災の前と後のものが閲覧、ダウンロードできるので、細かく見てゆけば例えば沿岸地域の地盤沈下の状況を読み取ることも可能だ。

 我々もこのデータと実際の地形、被災状況を照らし合わせて、それぞれの地点にどのように津波が進入し、そのエネルギーが人工物にどう作用したかを思い描くなどしながら、走っていったのである。

福島県・相馬から宮城県・仙台、松島へ

 相馬から太平洋岸に沿った道路を北上する。ここでの幹線は国道6号であり、さらに海に近い所をJR常磐線が通っている。いや、正確には「通っていた」。

福島県から宮城県に入った亘理郡山元町。常磐線・坂元駅は駅舎とその前の商店街が津波に直撃され、震災・津波の直後には半壊した駅舎や跨線橋が残っていたが、今は周辺の建屋の残骸やレールも含めてほぼ全てが撤去され、表土と泥が広がる中にコンクリートのホーム基礎部分だけが残っている。この場所に再び線路を敷設しても再び大きな津波に襲われればまた大きな被害を被ることは必須であり、JR東日本は山側に新しい路線を建設しての再建を提案している。(筆者撮影、以下すべて)
津波が浸入して退く動きのエネルギーに直撃された海沿いの平地は、破壊による瓦礫が一掃されて剥き出しの表土が広がり、ところどころに建物の基礎だけがのぞく。道路よりも海沿いには瓦礫をうずたかく積み上げた集積場、暫定的な堤防としての土嚢、さらに嵩上げを進める四角い台地状の土砂の山、海を遮ろうとする高い防波堤の建設現場などが次々に現れる。土を覆うものがほぼ全て失われ、その中を瓦礫と土砂を運ぶダンプが次々に往還するために土埃がひどく、溶けた雪と混じり合って道路もその周辺も粒子の細かい泥で汚れている。ここから先、津波が押し寄せた場所でずっと見続けることになる光景。