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 コサックのペトリンが北京を訪問してロシアと中国が初めて出合ってから、ほぼ20年が経った。その1636年に、満州(今の東北3省)の地に興った女真族は国号を「大清」と改めて、南の明への侵攻作戦を進めていく。

 そして、同時に北方へも勢力圏を拡大して、1630年代にはアムール河(黒竜江)中流・上流での支配権を確立していた。

 その頃に、このアムール河へ探検家のポヤルコフがロシアの遠征隊を率いて到達する。それに先立って彼らのコサック軍団はもっと北の地域を東に進んでいたのだが、オホーツク海が見えると東はこれで終わりだと思い込んで、目指す方角を南に変えた。その行き着いた先がアムール河である。

ロシアと中国、最初の戦争が勃発

 学者の調べでは、オホーツク海に出ればラッコの毛皮が手に入ることにロシア人が気付いたのは、それからおよそ100年も後のことらしい。初めからそれが分かっていたら、中国との付き合いはもっと遅れていたのかもしれない。

 ポヤルコフはアムール河周辺で毛皮の取り立てを行った。ちょうど清が明王朝を倒す作戦の真っ最中だったから、運よくその行動は中国側には目立たずに終わる。だが、明が清に取って代わられた直後の1649年に、別の探検家のハバロフ(その名が今のハバロフスクに残る)がアムール河畔に現れると、目立たないでは済まなくなる。

 広大なシベリアから極東に向けて延々と進んできたロシア人にとっては、原住民の激しい抵抗さえなければ(いや、あったとしても多分)どこもかしこも土地は無主物で、先に自分の物と宣言した者が支配権を得るという発想しかない。

 だから、アムール河沿岸で食糧確保のための農地の獲得を始めると、ハバロフは誰にも挨拶することなく要塞を築いてしまう。それに、現場にやって来た面々が、それまでに征服してきた少数民族と中華帝国に昇格した清とで、どれだけの違いがあるのかをよく分かっていたとも思えない。

 まさか、それが虎ならぬ龍の尾を踏む結果になるなどとは思いもよらなかっただろう。だが、この頃までに清は満州の支配権を固めていたから、その鼻先にこんな要塞を造られたら煩わしいことこの上ない。

 1652年にハバロフと清の地方責任者との間でとうとう戦闘が始まった。中ロ間での初めての軍事紛争である。少数でも火力に優るコサック兵に最初は清も苦戦したが、朝鮮(1637年に清の属国となる)から急遽鉄砲隊を派兵させ、この助けで押し返し始めた。

 当時の朝鮮は銃の供給が可能だった。日本による朝鮮半島侵攻(1592~1598年の文禄・慶長の役)で、投降した日本兵からの知識を基に火縄式銃の生産を始めていたからだ。双方とも似たような性能の銃で撃ち合うなら、結局は物量が戦闘の帰趨を決めることなる。

 それにしてもコサックたちは、それまで出会ったシベリアの原住民とは違って清が銃を持っていることに痛く驚いただろう、「あいつら、一体どこから銃を手に入れたんだ?」。まさか日本の製造技術が遠因だったとは、である。