ロシアと中国という2つの国が初めて出合ったのは、今から400年ほど前の、日本で言えば戦国末期の頃になる。ロシア人が支配領域を広げながら東に向かい、彼らの方からまず中国の門を叩いた。
そこから最近までの両国間の交渉史を垣間見ると、今の中ロ関係を支えたり規定したりする要素が多々浮かび上がってくる。それも、これら2国間だけではなく、ヨーロッパともアジアとも話は陰に陽につながってくる。
昨年末に誕生した日本の新政権には、従来にも増してこれら両国に対して政策の歩を進めることが求められている。そのために、彼らが互いにどう付き合ってきたかの歴史をなぞってみることで、その今に到る間柄を知っておくことも幾分かの意味があるかもしれない。
ならば、そのそもそもの馴れ初めから始めてみよう。
モンゴルの支配から生まれたトラウマ
4世紀前になぜロシアが中国と接するようになったのかを探るには、ロシアの歴史をそこからさらに4世紀ほど遡って、モンゴルに征服された時代から眺める必要があるようだ。
1200年代の初めにモンゴル全部族の長となったチンギス汗は、東へ西へと侵攻作戦を繰り返し、我々が歴史の教科書で習っている通りの向かうところ敵なしだった。
軍勢だけで30万(そんな大軍は当時のヨーロッパ人には想像すらつかない)、しかも引き連れる馬の数150万頭、羊に到っては900万頭という説まであるのだから、それらを食わせるだけで、文字通り彼らの行軍の後にはペンペン草も生えなかっただろう。
強力な弓を持ち、飛び抜けた行軍速度の軽装騎兵部隊は、敵の歩兵や陣地に火力と速攻の電撃戦で襲いかかった第三帝国の機甲師団のようなものだ。当時はまだ諸民族の戦争で銃が出現していなかったことも幸いして、騎馬戦での一人勝ちになる。
広大なロシア平原に点在したスラブの諸都市も、チンギス汗の騎馬軍団の襲来を受けて抵抗空しく破壊されていった。
今でこそ、モスクワの中心には石造りのクレムリ(城砦)の城壁がそびえている。だが、モスクワでもその他のロシア諸都市でも現在に残る姿の城壁が築かれたのは、モンゴルに手酷い目に遭わされてから100年以上も後のことだ。木造建築で何一つ身を守れなかった教訓が、こうした防御壁の建設を学ばせたのだろう。
1230年代にスラブ世界はモンゴルの足元にひれ伏すことになった。この過程でどれだけの人的損害を蒙ったのかは分からない。研究者の推定ではロシアの人口は、1000年代の750万人から1200年代の600万人へと減少している。
その通りなら、人口の5分の1が昇天したか、領外のどこかへ逃走してしまったということだろうか。