ここで、時計の針を2008年秋まで戻してみる。そう、リーマン・ショック直後のあの混乱の時期まで。

 リーマン・ショックそのものは、単なる引き金にすぎない。それ以前から、世界の経済と消費はまさしくバブルの狂騒に突入していた。そして、それが遠からず弾けることは明らかで、問題はそれが何をきっかけにいつ起こるかの予測がつきにくいだけ・・・。これは、工業製品であると同時に消費欲望の象徴でもある「クルマ」を見て、実際に触れて、その資質を読み取ることができる者であれば、実感できていたはずである。

 少なくとも我々のような「観察者」が、以前に紹介したようなシナリオを描けたということは、「製品から企業が見える」「製品の売り方、買い方、すなわち消費から社会が見える」ということを示しているわけだ。

 ブランド力を全面に押し出して消費を喚起しようという意図ばかりが強くなり、本来、そのブランドへの信頼感を生み出すべきプロダクツの方の資質、作り手の誠意などは明らかに低下していた。そういうプロダクツに雰囲気だけで資産を注ぎ込む人が増殖する。それはバブルそのものだった。

 だとすれば、自動車のプロフェッショナルであるはずの、自動車メーカーの舵を取る人々には、それがもっと具体的な形で見えていて何も不思議はない。まして日本はすでに1度バブルとその崩壊を体験し、その苦い記憶もまだ新しいのだから。

 すなわち、自らが手がけるプロダクツと、それを受け入れる顧客、そして社会について常に観察と分析を怠らないプロフェッショナルであれば、とりあえずはバブルの波に乗って利益を増やしつつも、そう遠くないどこかのタイミングで経済のリズムが突然崩れる可能性をいつも念頭に置いて、組織と資金・資本を動かしてゆく・・・、その「心の準備」ぐらいはしていて、おかしくはなかった、と思う。

突然の生産調整をサプライヤーに押し付けても・・・

 しかし・・・。

 残念ながら、世界的にもその気構えと心づもりを持っていた自動車産業人は、ごくわずかに過ぎなかった。リーマン・ショックを引き金にして、雪崩を打つように続く経済混乱と消費の急激な減退に対して、ほとんどの企業がパニックに近い反応に終始した。

 今、振り返ってみると、その瞬間、ほぼ1~2カ月の短い時間の中で、私自身がトヨタ自動車の企業としての反応に対して、彼らの中で何が起こり何を考えているのだろうかと首を傾げたことが思い出される。

 イケイケドンドンで利益を生む商品を送り出すペースを加速し続けていた。それを一気に絞るしかない。あの状況ではまずそこから手をつける。それは当然。

 しかし、そこで何が起こるか。

 トヨタはもちろん他の自動車メーカー(自動車製造プロセスの中では、製品の最終組み立てを行っている所、でしかないのだが)は、工場の稼働を調整し、そこにいる人間の作業量を削る。それでいい。

 ただし、単純に人員の頭数をカットする、というやり方以外の方策を探るべきであり、本来ならばそれは経営側だけでなく労働者側の知恵と対応の共同作業であるはずなのだ。だが、ここでも残念ながら、日本の多くの現場ではそういう「労働の最適化」が現実のものにならなかった。それは今回の本論とはまた少し別の話。