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「マネジメントの父」と呼ばれ、日本では1956年発行の『現代の経営』以来、数々のベストセラーを生んだピーター・ドラッカー。日本の産業界に多大な影響を与えたと言われる一方、その人物像が語られることは少ない。本稿では『ピーター・ドラッカー ――「マネジメントの父」の実像』(井坂康志著/岩波新書)から内容の一部を抜粋・再編集。没後20年となる現在も熱心な読者が絶えないドラッカーの人生と哲学、代表的な著書が生まれた背景を紹介する。
ドラッカーは強欲な資本主義をどう批判し、どのような資質を知識社会の担い手に求めたか。
資本主義に正統性はあるか
遡れば、1965年のW・ガザーティによる著作『若き経営エリートたち』に推薦の辞を寄せた際、「現代のアメリカの若手経営者は、仕事において有能な一方で、目的について思い煩うことがない」との危惧をドラッカーは表明している。彼らには仕事に対する自負もあり、ある種の熱意さえ感じさせるが、目的意識が欠如していた。
仕事にのめり込み、周囲の状況とは無関係にひたすらそれに打ち込むことになる。時流に乗り遅れないよう前のめりに働く中で、いつしか自分も社会も見失っていく。
『新しい現実』の序文に見えるのは、そうした危惧である。旧思想からは自由になったが、彼らは利益からは自由でない生活をしていた。利益をドグマ化して彼らは生きていた。これでは経済は心配なくとも、社会が心配だとドラッカーは語る。
利益追求にはある種の「業」がある。市場経済を彼は受け入れてはいるものの、それも他の経済、たとえば特権官僚が価格と供給量を決定する体制よりもいくらかましなだけに過ぎないと、ドラッカーは言っているのである。
後に『ワイアード』は「資本主義の教祖」とまで彼を呼んだが、その実、資本主義の批判者として、1986年、『パブリック・インテレスト』に「敵対的企業買収とその問題点」という論文を寄せ、過激化する資本主義の暴威を彼は論じている。
資本主義も、マルクス主義やナチスのイデオロギーには勝ったつもりでいても、利潤追求に一元化されてしまえば、新しいイデオロギーにからめとられることになる。敵対的買収は、とりわけその象徴ともいえる醜悪な現実だった。