鶴岡八幡宮 写真/cap10hk/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

権力者としては知られていない実朝の実像

 鎌倉幕府の3代将軍は、源実朝(1192~1219)です。父は、源頼朝(幕府初代将軍)、母は、北条政子。そして、実朝の兄は、2代将軍の源頼家でした。しかし、頼家は、有力御家人の比企氏と縁戚(比企能員の娘が、頼家の妻妾。妻妾は頼家の子を産む)にあり、強固な繋がりを有したことから、北条氏(時政)に警戒され、ついには鎌倉を追放。伊豆修善寺において、北条氏の手の者により、殺害されるのです(1204年7月)。その間に、北条氏により擁立されたのが、当時、幼名・千幡といった実朝でした。

 建仁3年(1203)9月、朝廷は、千幡を征夷大将軍に任命します。千幡は、同年のうちに、名を実朝と改めます。実朝という名は、朝廷(後鳥羽上皇)が与えたものです。実朝はまだ11歳と若年でした。

 3代将軍・実朝というと「政治上に多くを期待しえないことを知って、むしろ京都風の文化と生活とを享受する楽しみに意をもっぱらにし、夫人も都から迎え、右大臣の高官を望むという風であった。そのため関東武士の信望はしだいに薄らいだ」とのイメージがこれまで強固でした。和歌をよく詠んだことも(実朝の歌集は『金槐和歌集』。ちなみに、実朝の和歌を、明治の歌人・正岡子規は激賞している)、そうしたイメージの形成に一役買ったものと推測されます。

 筆者が受けた学校教育においても、実朝は権力者というよりは、文化人的な扱いだったように記憶します。よって、権力者・実朝の実像というのは、余り知られていないように思います。

 彼は、どのようなリーダーだったのでしょうか。実朝というと、前述のように、政治に無関心、そして、北条氏の傀儡のような印象が強いですが、最近では、有力御家人や宿老に支えられつつ、将軍としての活動をしっかりしていたとの見解が提示されています(例えば、坂井孝一『源氏将軍断絶』PHP研究所、2021年)。さて、実朝は文人的印象が強いので、温厚で怒らない人と思っている方も多いかもしれません。