ソフトボール日本代表監督としてシドニー五輪(2000年)、アテネ五輪(2004年)を率い、日立高崎(現・ビックカメラ高崎ビークイーン)を常勝軍団に育てるなど、日本のソフトボール界を切り開いた宇津木妙子氏。70歳を迎えた今も国内外でソフトボール普及の活動を行うなど、精力的に活動を続けている。時代が変わっても求められる指導者が、大切にしていることとは?
「一生懸命やっているのに勝てない」チームをどう変える?
――長年、選手として活躍した宇津木さんは、1985年に、日立高崎の監督に就任しました。指導する側に立ったのは、やはり選手時代にソフトボール界への課題意識があったからなのでしょうか。
宇津木妙子氏(以下敬称略) そういうわけでもないんです。日本ソフトボールリーグのユニチカ垂井で31歳までプレーを続け、現役を引退して半年ほど経ってから、同リーグの日立高崎から「今、監督が辞めて不在なのでチームを見に来てくれないか」と誘われました。
当時の日立高崎は全国から有望な選手が集まっているにもかかわらず、3部リーグで低迷していて「どうして勝てないの?」と選手たちに聞くと「練習は一生懸命やっているけれど、相手が強いんです」と言うんですね。私は「相手が強いんじゃなくて自分たちのやり方次第じゃない? 次の監督が決まるまで私がやってきたことを教えるから」とコーチを始めました。
最初はランニングをしても私についてこられないくらいでした。でもそれが1カ月もすると追いついてくる。選手の成長を実感するようになっていたところで、日立高崎の工場長に「監督をやってくれないか」と正式にオファーされたんです。私は悩んで、父に相談して背中を押されて引き受けることにしました。
悩んだのは女性が監督に就く前例がなかったからですが、日立高崎内も私が女性だということで大反対だったのを工場長が「宇津木さんに賭けよう」と周囲を説得してくれたと後で聞きました。この工場長のために頑張ろう、と思いましたね。
――日本ソフトボールリーグ界初の女性監督を迎えた日立高崎は3年後に1部リーグに昇格。全日本総合選手権5回優勝、日本リーグ3回優勝を果たします。一体何をしてそこまでチームを強化できたのですか。
宇津木 中学の先生から言われたことです。私は中学生になってソフトボールを始めましたが、それは顧問の先生の「自分の個性をどう生かすかは自分次第。自分のいいところ、他人にない長所を伸ばしなさい」という言葉がきっかけだったんです。
私は、5人きょうだいの末っ子で、母から勉強ができる兄たちと比べられながら育ちました。悔しい思いをしながら、私は強みの運動で母を見返してやろうという気持ちが強くありました。
だから、監督として、選手のいいところ、個性を生かすことを大切にしました。
まずは選手一人一人を分析します。家族構成から出身校の指導方針、出身県の県民性などまでを個人カードに書き、私から見た長所・短所、その選手自身の自己分析による長所・短所、さらにはチームメイトから見た長所・短所も、全てまとめます。それを眺めながら、その選手に合ったポジションや役割を考えていくんです。その上で、結果を出すためには練習しかない。選手たちには厳しい練習を課してきました。
――とはいえ、全員が全員、試合で活躍できるものなのではないですよね。
宇津木 もちろん、チームには、実力では貢献できない選手もいます。ただ、各選手に役割を伝え、いかに必要な存在かを説明し、理解してもらうのがリーダーの仕事です。
私は最短でも3年は続けてほしいと言います。だから3年間「バット引き」を担当した選手もいます。バット引きとは、バッターが打った後に転がったバットを拾う係。チームの裏方です。3年目のシーズンが終わってから彼女が私に「監督、私は来年もバット引きでしょうか?」と尋ねてきたので「そうだね、代打ならチャンスがあるかもしれないけどね」と正直に答えました。そこで彼女は選手としての限界を悟ったのでしょう。
「監督、私には夢があります。ここまでソフトボールを続けてきて、バット引きで日本一になれた。だから今度は看護師になって人助けをしたいんです」と言ってチームを離れ、今では大阪の病院で看護師長をしています。