日本コンビニ業界は現在、踊り場にある。2010年代に入り、国内に年間1000店ペースで店舗数を増やしてきたセブン-イレブンでさえ、2018年ごろから急速に出店数を抑制、昨年度(2022年度)に増加した店舗は75店にとどまっている。こうした傾向はファミリーマートやローソンでも同様だ。日本のコンビニは今後、いかに発展を続けていくのか。この連載には、この点を明らかにし、そこから変革に必要な学びを得てもらう狙いがある。第1回は業態の変革(商売の仕方の変革)だ。なぜ、日本でコンビニが受け入れられたのかをひも解いていくが、私が着目したのがセブン-イレブン2号店の「否定」である。

本稿は「Japan Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2023年9月22日)※内容は掲載当時のもの

ミニスーパー的な品揃えは売上につながらなかった

 セブン-イレブンは1974年5月15日、東京・江東区に1号店を開設。1980年度に1000店舗、2003年度に1万店舗を達成し、現在(23年8月末)の店舗数は2万1442店舗。2024年にはチェーン50周年を迎える。

 このセブン-イレブンの成長を早い段階で決定づけたのが、実質的な創業者である鈴木敏文氏の力にあることは疑いようもなく、加えて1号店の加盟店オーナーに自ら手を挙げた山本憲司氏の熱意と能力も見逃せない(その経緯は山本憲司氏の著書『セブン-イレブン1号店 繁盛する商い』にある)。

 1号店の豊洲店(東京都江東区)は売場面積20坪で、酒とたばこを扱い、年間売上高は1億8000万円と非常に高い数値を記録した。

 セブン-イレブンがこの次に出店したのが、相生店(神奈川県相模原市)。2号店は直営の実験店で、売場面積は50坪。「たばこあり、酒なし」で、生鮮3品(青果、精肉、鮮魚)を扱った点が特徴だったが、年間売上高は1億5000万円にとどまってしまった。

 1号店は2号店の半分以下の売場面積にもかかわらず、売上では2号店を上回り、1坪当たりの売上は2号店の3倍もあった。この差はどこから生まれたのか。両店の違いを調べてみると、1号店の売上をけん引したのが冷蔵販売していた缶ビールだと分かった。

 1号店は元は酒販店で、酒販免許を持っていたことでアルコール類を品揃えできた。当時は家に風呂がない家も多く、近所の寮に住む若者たちが銭湯の帰りに立ち寄り、冷えたビールを買っていった(こうした行動を引き起こす一因になった点では手軽に飲める「缶」という形状にしたビールメーカーの功績も大きかったといえる)。

 この1号店の成功を見たセブン-イレブン本部は、他のコンビニチェーンに先行して酒販店の加盟促進に舵を切る。酒販店の中でも良い立地の店舗を精査して、その経営者にコンビニへの業態転換を提案。それでセブン-イレブンはスタートダッシュに成功した。

 セブン-イレブンが300店舗を達成した1977年10月のデータによると、加盟店の前身は、酒販店が192店舗、食料品店が41店舗、米穀店が14店舗、洋品雑貨店が8店舗で、その他が薬局、脱サラ(商業界 月刊『販売革新』1977年11月号)。酒販店出身の加盟店の比率は実に64%に達していた。

 また、鈴木敏文氏はコンビニという全く新しい業態を日本で広げていくにあたり、セブン-イレブン本部の人員にイトーヨーカ堂の人材を進んでは勧誘しなかった。イトーヨーカドーという量販店の「やり方」になじんだ人材は、それまで日本になかったコンビニという業態を作り上げていくにはマイナスになると判断し、畑違いの業界から多くの人を採用した。

 ただ、そうはいっても、親会社はイトーヨーカ堂である。当時、生鮮を扱う食品売場は量販店の稼ぎ頭であった。日本にできたばかりのコンビニがモデルとすべき店はなく、生鮮3品を品揃えすべきと考えるのは不思議ではない。そこで前述の2号店の品揃えになるのだが、50坪の売場で生鮮3品まで扱おうとすると、生活者が必要とする十分な品揃えができず、結果としてスーパーマーケットに負けてしまう。2号店でこのことが分かって以降、ミニスーパー的な品揃えは、セブン-イレブンの店づくりから排除されていった。