歴代ウイスキーが展示されているサントリー山崎蒸溜所の見学施設「山崎ウイスキー館」(写真:共同通信社)

 日本のウイスキーづくりは昨年100周年を迎えた。その最初の一歩を踏み出したのが、当時の寿屋、今のサントリーホールディングスだ。いまだ未上場ながら、同社の売上高は約3兆円で、日本の食品・飲料メーカーでは最大だ。この礎をつくったのが、二代目社長の佐治敬三氏だ。

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評価が高まる日本のウイスキーづくりは山﨑蒸留所から始まった

 国産ウイスキーが世界中でブームを巻き起こしている。

 2023年11月、かつて軽井沢にあった蒸留所でつくられた「軽井沢1960年」というウイスキーが、サザビーズのオークションにかけられ、30万ポンド(約5600万円)で落札された。同年6月にはサントリーの「山崎55年」がニューヨークで競売にかけられ、60万ドル(約8100万円)で落札されている。

「山崎55年」は、発売された2020年に香港のオークションに出品され、620万香港ドル(約8515万円)で落札されたこともある。この8515万円というのは当時の為替レートで、円安が進んだ今では約1億1745万円となる。いずれにしても「たかだかウイスキー1本」とは言えないほどの金額だ。

サントリーのウイスキー「山崎55年」(写真:共同通信社)

 この価格の背景には、中国など新興国を巻き込んだ世界的なウイスキーブームに加え、日本産ウイスキーの評価が高まったことがある。

 2023年9月には、ロンドンで開催された世界的な酒のコンペティション「インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ」で「山崎25年」がジャパニーズウイスキーの最高賞を受賞しただけでなく、全エントリー商品の中から1点だけ選ばれる「シュプリーム・チャンピオン・スピリット」に輝いた。

 この賞以外にも、「山崎」やニッカウヰスキーの「余市」などの国産ウイスキーは、国際的コンペティションで何度となく表彰されている。しかも最近では老舗メーカーだけでなく、埼玉県秩父市でつくられた「イチローズモルト」などの新興メーカーも世界で高く評価され始めた。

 日本のウイスキーづくりは101年前に完成したサントリー(当時は寿屋)の山﨑蒸留所から始まった。この物語はNHKの朝ドラ『まっさん』でも描かれているが、寿屋の創業者鳥井信治郎氏と、のちにニッカを創業する竹鶴政孝氏による二人三脚だった。

 信治郎氏の口癖で、今ではサントリー精神を象徴する言葉となっているのが「やってみなはれ」。何事もやってみなければわからないのだからチャレンジあるのみという意味だ。そしてこの言葉に忠実に生き、サントリー(現サントリーホールディングス)が日本最大の食品・飲料メーカーに成長する礎を築いたのが、二代目社長の佐治敬三氏(1919─1999)だ。

佐治敬三氏(1985年撮影/写真:共同通信社)

 信治郎氏の次男で母方の親族の養子となったため佐治姓となる。しかし養子になったあとも鳥井家で寝食を共にし続けた。信治郎氏の長男、吉太郎氏が寿屋を継ぐのが規定路線だったが、33歳で早逝したため、佐治氏が後を継ぐことになった。

 佐治氏が寿屋に入社したのは、終戦の年の1945年。社長に就任したのは1961年で、翌年、会長に退いていた信治郎氏が死去。そしてさらに翌年の1963年、社名をサントリーに変更する。その後1990年に会長となり、1999年に亡くなるまでその座にとどまり続けた。