デジタル化と監視
このようなセキュリティと監視社会のバランスという問題は、マイナンバーやマイナンバーカードの活用、給付金の配布、そして今回の金融犯罪など、あらゆる問題に関わってきます。監視カメラによる人のモニタリングと、共通IDによる金融取引のモニタリング、いずれも、これらが人々の日々の生活に役立つものになるかどうかは、人々が「これらが悪用されることはない」と信頼できるかどうかが鍵になります。
技術革新と監視社会という問題は、既に1985年のSF映画「未来世紀ブラジル」の中で、鮮やかに描かれています。仮に政府が「未来世紀ブラジル」同様に圧政化し、「この人は政府に都合の悪いことを言っているので、口座を封鎖し、支払決済ができないようにしてしまえ」と考えるようになったら大変です。
一方で、「誰にも把握されない口座を持ちたい」といった考えは、今や世界的には支持を得られなくなっています。「金融ビジネスをやるなら、KYC(Know Your Customer, 本人確認)をしっかりやってください」という考え方は国際的なルールになりつつあります。KYCの甘い口座がオレオレ詐欺やマネロンに悪用されるリスクには、一段と厳しい監視の目が向けられています。もはや、ゴルゴ13が仮名でスイス銀行に口座を作れる時代ではないのです。
では、デジタル時代にセキュリティと自由な経済活動を両立させるには、何が求められるのでしょうか。
まず、「金融取引の安全を確保するにはKYCが必要であり、それにはコストがかかる」という認識を、社会全体で共有していく必要があります。
より便利で安価な金融サービスの登場は望ましいことですが、それが「KYCの手を抜く」ことで実現されては意味がありません。日本の金融が全体としてKYCが甘いと思われると、FATF(マネーローンダリングに関する金融活動作業部会)など国際機関の見方も厳しくなり、日本全体が不利益を被ることになります。もちろん、取引の金額によって取り扱いの濃淡をつけることにより、少額の取引についてはマネロン・KYC対応の負担を減らす、といったやり方はあるでしょう。
次に、新しい技術――暗号技術や生体認証、ブロックチェーンなど――を取引の効率化や高度化だけでなく、セキュリティにも積極的に役立てながら、世界でトップレベルのセキュリティを目指していくことです。
「国民共通ID」のようなインフラでセキュリティがもし破られれば、損害もきわめて大きくなり得ます。この点は海外でも強く意識され、例えばエストニアは、国民IDを守るためブロックチェーンなどの技術を動員しています。逆に、米国はSSN(Social Security Number)のカードを敢えて紙とし、写真も付けていません。「SSNを単独でのIDとしては使わせない」という対応を取っているわけです。日本も、このような海外のさまざまなセキュリティ対応について十分調査し、日本にとって最善のセキュリティを考えていくことが大切です。この中で、例えば、日本の「マイナンバーカード」の表面に個人番号と住所の両方が書かれていることなどについても、海外との比較やオープンな議論を通じて、虚心坦懐に評価していく必要があるでしょう。
第三に、情報の利用や悪用に対する法的・制度的な歯止めをきちんと設けるとともに、情報を預かる主体への信頼を確保していく仕組みが必要となります。例えば前出のエストニアでは、国民の情報を集積する政府にはきわめて高い信頼が必要との考え方のもと、デジタル技術を「投票率の引き上げ」にも使う“i-Voting”(電子投票)を導入し、国政選挙への高い投票率を維持しています。
セキュリティを効率的に確保する方法とは、結局「信じられる誰かに託す」ことになります。自らのセキュリティを誰も信頼せずに守ろうとすれば、所持金は全て自室の金庫に入れ、家の鍵、部屋の鍵、金庫の鍵など何十もの鍵を持ち歩かなければならず、大変なコストがかかってしまいます。セキュリティの確保とは、他者への信頼を構築する仕組みを作ることなのです。
◎山岡 浩巳(やまおか・ひろみ)
フューチャー株式会社取締役/フューチャー経済・金融研究所長
1986年東京大学法学部卒。1990年カリフォルニア大学バークレー校法律学大学院卒(LL.M)。米国ニューヨーク州弁護士。
国際通貨基金日本理事代理(2007年)、バーゼル銀行監督委員会委員(2012年)、日本銀行金融市場局長(2013年)、同・決済機構局長(2015年)などを経て現職。この間、国際決済銀行・市場委員会委員、同・決済市場インフラ委員会委員、東京都・国際金融都市東京のあり方懇談会委員、同「Society5.0」社会実装モデルのあり方検討会委員などを歴任。主要著書は「国際金融都市・東京」(小池百合子氏らと共著)、「情報技術革新・データ革命と中央銀行デジタル通貨」(柳川範之氏と共著)、「金融の未来」、「デジタル化する世界と金融」(中曽宏氏らと共著)など。
◎本稿は、「ヒューモニー」ウェブサイトに掲載された記事を転載したものです。