日本の生涯処女・童貞・未婚の偉人たち

 我が国にも、未婚を貫いた、あるいは生涯処女、童貞とされる偉人も少なからず存在する。

 日本では一般にクレオパトラ、楊貴妃と共に「世界三大美女」の一人に数えられる小野小町は生涯独身。

 百人一首にも収録される小野小町の歌には、彼女がかなりの美人だったことがうかがえる。

「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」(いつの間にか、花の色もすっかりと色あせてしまいました。降る長雨をぼんやりと眺めているうちに)

 これは自身の美しさを花にたとえて嘆くなど、美人ならではの歌といえよう。

 また、義経に忠義を尽くした怪力無双の荒法師・武蔵坊弁慶や、室町幕府足利将軍家の11代義澄を擁立し「半将軍」といわれた細川政元(1466-1507)も生涯童貞といわれている。

 他人と性的に交わらない「一生不犯」だったと評されている戦国武将・上杉謙信(1530-1578)。

 二刀を用いる二天一流兵法の開祖で、京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名な宮本武蔵(1584-1645)。

 同じく江戸時代前期の剣術家柳生連也斎(1625-1694)も生涯妻を娶ることはなかった。

 近代では『松下村塾』を開き、高杉晋作、伊藤博文らを指導・育成し明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた吉田松陰(1830-1859)は、女色とは縁遠く、「仙人」という仇名がつけられている。

 松陰は性的なことに対して嫌悪感があったようで、旅の途中、同行した友人が遊邸に誘っても同行しなかった。

 また、妹・兒玉芳子(千代)は、回顧縁に「松陰は生涯婦人に関係せることは無かりしなり」と綴っており、松陰が女性と交わることなく童貞のまま人生を終えたことの証跡とされる。

 2024年に日本で紙幣が刷新される。

 新五千円紙幣に梅子の肖像が使用されることが決まった女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者、・津田梅子(1864-1929)も生涯未婚を貫いた。

 梅子は日本初の女子留学生の一人で、米国留学の際、岩倉使節団に同行。伊藤博文は岩倉使節団のメンバーの一人だった。

 梅子は後に伊藤とパーティで再会すると、伊藤から客分として住込みの家庭教師を提案され、それを引き受ける。梅子は伊藤家の家庭教師兼通訳として、伊藤の娘にはピアノの指導も行った。

 以前、『「性の愉楽が一番の歓び」、近代国家を築いた伊藤博文の素顔』でも記したが、伊藤博文は1000人の女性と性交した性豪である。

 伊藤家にて博文と同じ屋根の下で住み込む梅子。「性の愉楽が一番の歓び」と豪語する伊藤博文と性的な関係がなかった方が不自然ではないか。

 今でも広く知られる詩、『アメニモマケズ』や、多くの人に読まれている、『銀河鉄道の夜』、『注文の多い料理店』を著した大正、昭和の詩人で童話作家・宮沢賢治(1896-1933)も、生涯、未婚を貫いた。

 農学校の教員時代は見合いの話がいくつも持ち込まれたが、賢治は頑として受け付けなかった。

 賢治の根底には性愛や性的肉体への恐怖や嫌悪感があったという。

 親交のあった詩人・藤原嘉藤治に賢治が、「性欲の乱費は君自殺だよ、いい仕事はできないよ。瞳だけでいいぢやないか、触れてみなくたっていいよ。性愛の墓場に行かなくてもいいよ。」と語り、性欲の発露を戒めたという。

 だが、賢治は和綴じの春本を所持しており、それを眺めながら自慰で、爆発しそうな性欲を発散させていたとみられている。

 賢治は生涯、童貞と言われるが、晴れ晴れとした笑顔で、友人で作家の森荘已池に現在の岩手県一関市にあった「花川戸遊廓(山の目遊廓)へ登楼してきた」と語っていたことが、『宮沢賢治の肖像(森荘已池著)』に綴られている。

 晩年、賢治は森荘に禁欲主義について、「何にもなりませんでしたよ」「まるっきりムダでした」と語り、さらには、これからは「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい」と自身の考えが変節したことを告白している。

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