すべてを変えたイラン革命と米国大使館人質事件

 この関係が一気に崩れたのは、1978年に勃発したイラン革命と、革命に続く米国大使館人質事件である。

 イラン革命ではパフラヴィー朝が倒れ、ホメイニ師を指導者とするイスラム原理主義国家が生まれた。

 これまで西欧風の服装を着て、ワインとフランス料理を楽しんでいた女性たちはスカーフの着用を義務付けられ、宗教警察の監視下、行動の制約を受けるようになった。

 さらに、イランと米国の関係が決定的に悪化したのが、革命の影響から起きたテヘランの米国大使館人質事件である。

 パフラヴィー皇帝の米国亡命に対して、皇帝を受け入れた米国大使館の前に多数の学生が集まり、抗議のデモを行った。そして、暴徒と化した学生らが大使館に乱入し、52人もの大使館員とその家族が人質となったのだ。

 幸い死者でなかったものの、人質とされた期間は1年2カ月、444日にも及んだ。歴史上最大・最長級の大使館員人質事件となった。

 この事件によって、世界最大の経済大国で軍事大国であった米国の面目は丸つぶれになった。この事件は、米国国務省関係者のみならず、米国人の心に深いトラウマを残した。

 私はこれまで、米国国務省をはじめ有識者とイラン情勢について議論をする機会を得てきたが、イランに対する嫌悪感は相当強いと感じている。「イランだけは許さない」と。

 米国とイランの外交関係は断絶。米国から多くの軍事支援を得ている同盟国とイランの関係も一気に悪化した。

 イスラム原理主義国家となったイランがユダヤ教の国、イスラエルを敵視した面はあるが、それ以上に大きいのは米国の存在だと思う。結果、中東における米国の代理国家、イスラエルは反イランを明確化。2000年以上にわたる比較的良好だった関係は滅び去ったのだ。