太平洋戦争で敷かれた灯火管制の対象に

「丸太町、荒神口、二條、三條其他の各橋上及び御苑(ぎょえん=京都御所)内等には市民群衆し、孰(いづ)れも手を額(ひたい)にして歓賞(かんしょう)し帝國萬歳の聲湧(こえわく)が如くなりしぞめでたき」

「祝平和」などという仏教にまったく関係のないスローガンを点火させること自体がナンセンスであり、いかに地元市民や仏教界が戦勝に酔っていたかがうかがえる。

 日清戦争に続いて、1905(明治38)年6月1日にも日露戦争戦勝祝賀の点火が行われた。当時のお盆の送り火は、「竿に鈴の形」「い」を含めた「七山」で構成されていたようである。

 ところが太平洋戦争時は、戦勝祝いどころか、物資である薪の不足と、夜間空襲の目標にされるとして灯火管制が敷かれたことで禁止措置がとられた。灯火管制は1938(昭和13)年に発令されている。唯一、大文字だけは戦没者慰霊のために特別に許可され、以降も8月28日に点火された。

 だが、1943(昭和18)年から1945(昭和20)年までの3度、送り火は完全に見送られた。

 その代替として、地元の少年団員ら800人が白いシャツを着て8月16日の早朝に如意ヶ嶽(大文字)に登り、人文字で「白い大文字」を浮かび上がらせた。そして、英霊を弔う目的で「ラジオ体操した」という。

 1944(昭和19)年8月17日の京都新聞では、2度目の点火中止について、「送り火は若き力で 大文字に描く『人文字』」との見出しで、写真とともに記事を伝えている。山肌に白く浮かび上がる風景は、真っ赤な送り火に見慣れた市民からすれば異様だったに違いない。