埼玉県の菅谷城跡に立つ畠山重忠像 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

『吾妻鏡』どおりなら義時は間に合わない?

 1205年(元久2)6月22日。鎌倉武士の鑑(かがみ)といわれた畠山重忠は、北条義時の率いる幕府軍によって、二俣川で討ち取られました。

 この合戦については、幕府の正史として編まれた『吾妻鏡』という史料に、詳しく記されています。ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれた二俣川合戦も、この『吾妻鏡』の記載をベースにして、登場人物の関係や心理を掘り下げるように脚色されています。

 でも、『吾妻鏡』の記述をよく読んでみると、いくつかの疑問が生じます。

鎌倉若宮大路の傍らに立つ伝畠山重保供養塔。宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる形式である

 たとえば、『吾妻鏡』によれば、北条時政は6月22日の朝、まず三浦義村に命じて畠山重保(しげやす・重忠の息子)を由比ヶ浜で討たせます。と同時に、御所の備えを固め、重忠を鎌倉の手前で討つべく義時らの軍勢を出動させ、昼頃に両者は二俣川で相まみえたことになっています。

 でも、鎌倉にいる御家人たちに動員を命じて軍勢を出動させるには時間がかかります。一方、鎌倉から二俣川までは直線距離で16キロほどありますから、昼頃に両者が接敵するためには、義時は早朝のうちに鎌倉を発しなければなりません。

 つまり、『吾妻鏡』の記述どおりに動いたのでは、時間的に間に合わないのです。だとしたら、由比ヶ浜での重保誅殺と、軍勢の出動とは同時進行だっはずです。これらは事前に計画され、準備や根回しが進んでいた、と考えた方がよいでしょう。二俣川の合戦は、偶発的に起きたのではなく、事前に計画されていた可能性が高いのです。

相鉄線鶴ヶ峰駅の近くにある二俣川古戦場伝承地

 次に、『吾妻鏡』は重忠の一行を134騎と、具体的に記しています。御所を固めた人数は400と概数で記し、義時の率いた軍勢については「雲霞のごとく」と濁しているにもかかわらず、です。おそらく、400はパッと見の概数で、討伐軍については集計ができていないのでしょう。

 にも関わらず、重忠一行を134騎と記しているというのは、戦場で実際に討ち取った人数を記録したから、と考えるしかありません。その一方で、捕虜についてはまったく書かれていません。この時代の合戦では、負傷して動けなくなったり、戦意を失って捕らえられる兵がけっこういたのですが。

 重忠一行134騎は、二俣川で一人残らず殲滅された、と考えてよいでしょう。

 ところが、『吾妻鏡』は二俣川の合戦にのぞむ重忠主従の会話を伝えているのです。すなわち、二俣川を見下ろす鶴ヶ峰にさしかかったところで、重忠らは重保が討たれたとの報に接し、川の向こうに鎌倉方の大軍が陣しているのを目にします。

鶴ヶ峰を通る鎌倉古道。重忠はこのあたりから二俣川を見渡したはずだ

 一族の中からは「双方の兵力が違いすぎるので、いったん本拠に帰って備えを固め、敵を待ち受けましょう」という意見が出ます。しかし、重忠は「そんなことをしても、梶原景時のようになるだけだ。一時の命を惜しんでどうするのか。」と言い放って戦意を固めた、というのです。

 一行が全滅したのだとしたら、この会話は、誰の証言に基いているのでしょうか? どうやら『吾妻鏡』は、何かを隠したり、事実とはことなることを作文しているようです。時政や義時の行動を正当化するため、と考えてよいでしょう。

二俣川古戦場の近くにある伝畠山重忠首塚。重忠はこの地で無念の最期を遂げた

 

※ 発売中の『歴史群像』10月号に拙稿「鎌倉殿の古戦場を歩く/二俣川合戦」が掲載されています。この合戦について、より深い考察を読みたい方は、ぜひこちらをどうぞ!(ワン・パブリッシング 1080円)