後奈良天皇

(中脇 聖:日本史史料研究会研究員)

「闘う」貴族、土佐一条家の創設と一条房家の実像(1)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69192
「闘う」貴族、土佐一条家の創設と一条房家の実像(2)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69397

一条房冬の元服

 土佐一条家の2代目当主一条房冬(1498~1541)は、一条房家(前回記事を参照)の嫡男として誕生した。房冬は本家筋である摂関一条家の当主一条冬良の猶子(実の親以外と仮の親子関係を結ぶこと)となり、永正7年(1510)12月、侍従に任官、従五位に叙位され元服する(永正七年ヵ十二月四日付一条冬良消息、宮内庁書陵部図書寮文庫所蔵文書【函架番号・桂1045】ほか)。

 房冬がなぜ、わざわざ冬良の猶子になったのか?それは第一に、官位の昇進にかかわる問題である。前関白一条教房の子息でありながら、「在国公家」という立場にあった実父房家の官位昇進スピードが思いのほか遅れた前例を踏まえ、摂関一条家の猶子となることで、この問題を解消しようとしたのである。

 第二に、男子の授からない冬良の後継者として当初、猶子とされたのではないだろうか。房冬の諱も、冬良と中御門宣胤が相談の上、決定していた形跡があることも示唆的であろう。もっとも、この件については、房冬実弟の房通が冬良の後継者となっているため、房冬を冬良の後継者にすることを実父・房家が拒絶した可能性は高い。

 房冬元服から12年後、大永元年(1521)6月、房冬の正室に内定していた伏見宮邦高親王の王女・玉姫宮は土佐国に下向する(『二水記』大永元年六月廿二日条)。ちょうど房冬が前月に従三位に叙位され、公卿に列したタイミングでの降嫁(こうか。皇族の子女が皇族以外に嫁ぐこと)であった。おそらく、この婚姻には一条房家と三条西実隆との関係による伏見宮家への働きかけがあり、摂関一条冬良の猶子であるという点も大きく作用したのではないかと思われる。

 名実ともに、土佐一条家は皇族の姻戚になったのである。とくに、伏見宮家は第三代・貞成親王の第一王子たる彦仁王が、後花園天皇として即位しているほどの名門皇族であった。その宮家王女(姫宮)が摂関家猶子とはいえ、地方の「在国公家」に降嫁するなど、前代未聞のことだったのである。  

 また、房冬は側室として周防国(現在の山口県東南部)ほかの守護・大内義興の娘(義隆姉)を迎えており(『陰徳太平記』ほか)。この義興娘が産んだ子息がのちに大内義隆の養嗣子となる晴持であった(生母を伏見宮の姫宮とする異説もある)。

 側室とはいえ、摂関家猶子となっていた房冬との縁組は、中央政界とのパイプをより強固とするために有意義なものといえた。房家側にとっても、有力守護たる大内家との縁組による経済的利潤および軍事的な後ろ盾として、大きなメリットがあったのである。

房冬と堺商人・山科本願寺とのつながり

 一条房冬は、京の都の名刹大徳寺住持・古岳宗亘(こがくそうこう)に帰依(神や仏、僧侶など優れた者にすがり、従うこと)していた(『故大徳正法大聖国師古岳和尚道行記』永正六年九月十七日条)。宗亘は、近江国(現在の滋賀県)の佐々木六角家の出身と伝わり、後柏原天皇や後奈良天皇をはじめ皇族や、足利義稙や正親町三条公兄などからも帰依を受け、「大聖正法国師」号を授けられたほどの高僧である。

 この宗亘への帰依によって房冬は堺(現在の大阪府堺市ほか)の有力商人・茶人の(津田・天王寺屋)宗達らとのつながりを得たと考えられる。宗達の号は、大永6年(1526)9月に宗亘から与えられたもので(「龍光院文書」)あり、この宗達を通じて山科本願寺との密接なつながりを得たのである。

山科本願寺推定地東側にある土塁跡

 もっとも、房冬が堺商人や山科本願寺とのつながりを深める以前から、祖父教房、父房家もつながりを深めていたことが確認できるが、それをより強固にしたのが房冬であったといえる。

 とくに、房冬の父・房家が存命中であった天文6年(1537)正月には、「今朝、土佐の一条殿から尊翰(手紙)が来た。堺商人がこれを持って来た」(『天文日記』天文六年正月廿七日条)とあり、以降、房家・房冬父子と山科本願寺の証如との間で、頻繁に手紙のやり取りがなされていて、これを仲介したのが堺商人であったと思われる。

 すでに触れているように、房冬の側室には大内義興の娘がおり、大内家は対明貿易を通じて山科本願寺や堺商人とも密接に関係しており、房冬はこのような関係の構築と活用によって、あらゆる方面との交流を深めていったのである。