小渕恵三内閣で文部大臣を務めた有馬朗人氏(4列目の右から2人目、野田聖子氏の隣、1999年1月14日撮影、写真:AP/アフロ)

 12月7日、有馬朗人さんが亡くなったとの報道がありました。享年90歳。

 物理学者として、あるいは政治家としての追悼記事は、もっと適切な方がお書きになるだろうと思います。

 私にとって有馬さんは高校、大学学部学科の先輩であり、私自身が学生時代は授業を受け、大学で教えるようになってからは、国連「世界物理年」のスタッフとして、責任者の彼を支えたこともありました。

 そのおり、卒業から50年ぶりに母校の高校に有馬さんを繋いだところ、翌年から学園長に就任するという機縁もありました。

 そんな経緯がありますので「教育」に関する話題、もっとはっきり書くなら、日本中が「あれは失敗だった」と断定する「ゆとり教育」に特化して、有馬さんを送り、一つの時代の曲がりかどを考えてみたいと思います。

有馬朗人とは誰だったのか?

 初めに、時事通信電(https://news.yahoo.co.jp/articles/7e82523d874f7ebf7e91a1c50ba82186c1074bf2)を引用して、有馬朗人とは誰であったのか、振り返ってみます、

 有馬さんは1930年大阪生まれ、旧制浜松第一中学校、旧制武蔵高等学校を経て旧制東京大学理学部物理学科を1953年に卒業します。

 戦後なので名称は過渡的ですが、有馬氏は旧制帝大を卒業した最後の東大総長でした。今回の追悼稿の最大の焦点はここにあります。

 大学院進学後、修士修了時点で助手に着任しますが、正規の就学年限と同じ5年で原子核の基礎理論の博士論文を完成、日米を往復しながら講師、助教授、教授と職位を進め55歳で理学部長に就任します。

 59歳の1989年に東大総長に就任、退任後の93年からは理化学研究所理事長を務めますが68歳にあたる98年には参院選に出馬、当選するとともに文部大臣に就任、今後の職務統合を前提に科学技術庁長官も兼任し、今日の「文部科学大臣」スタイルのきっかけを作ります。

 この文部大臣時代の1998年、小渕恵三政権下で成立したのが、率直に記しますが天下に悪名高かった「ゆとり教育」の学習指導要領だったわけです。