1984年の夏の甲子園。決勝のスコアボード(写真:岡沢克郎/アフロ)

(矢崎 良一:フリージャーナリスト)

 取手二高、常総学院を率い、甲子園で春夏併せて通算3度の優勝を果たした名将・木内幸男元監督が、11月24日、肺がんのため89歳で死去した。好好爺然とした風貌と、茨城訛りの朴訥とした語り口調。幅広い世代の高校野球ファンから愛された名物監督だった。

 高校卒業後に指導者となり、46歳にして初めて甲子園出場を果たすと、70歳を超えてもグラウンドに立ち続けた。監督として甲子園通算40勝は歴代7位の記録だ。独創的な戦術、用兵は「木内マジック」と呼ばれたが、その采配の原点・原型には、最強の敵を迎え撃ち、誰もが予想しなかった劇的な勝利を掴み取った36年前の伝説の一戦があった。

練習試合の大敗に蒔かれていたタネ

 試合の前夜、PL学園の宿舎では、選手たちがバットを優勝旗に見立て表彰式のリハーサル(ごっこ)で盛り上がっていた。「よもや負けるはずがない」とどの選手も思っていたという。

 1984年夏の甲子園決勝戦。エース桑田真澄と4番打者清原和博のKKコンビを擁する大阪の強豪PL学園に、茨城の県立高・取手二が挑んだ一戦。戦前の下馬評はPL学園圧倒的有利と見られていた。

 前年夏、1年生のKKコンビの衝撃的デビューで優勝を果たしたPL学園は、彼らが2年生になったこの年も、春のセンバツこそ決勝戦で岩倉(東京)に0-1と足下を掬われ準優勝に終わったが、夏は再び圧倒的な強さで勝ち進み3季連続となる決勝戦進出。夏の大会2年連続優勝の快挙に王手を掛けていた。

 彼らの自信には根拠があった。その年の6月、PL学園は招待試合で茨城県に遠征し取手二と対戦している。結果は13-0の圧勝。清原がバックスクリーンを直撃する大ホームランを打ち、桑田は8回一死までパーフェクトの1安打完封勝利を収めた。「関東No.1」「東の横綱」と評判の高かった取手二を軽く一蹴し、「全然たいしたことねえな」と口々に言い合いながら大阪に帰っていった。

 そんな相手と、3カ月と空かない間の再戦。慎重な桑田でさえも、試合前、「練習試合は過去の話。でも自信はあります」と口にしていた。

 しかし、この時すでに「木内マジック」のタネは蒔かれていた。