1720年のマルセイユのペスト大流行の様子。マルセイユ歴史博物館収蔵の作者不詳の作品(ウィキペディアより)

 新型コロナウイルスの流行にともない、日本では久しぶりにカミュの『ペスト』がよく売れた、と聞く。これは日本だけではなく、本家本元のフランスでも、そしてCOVID-19による死者の数が欧州で最初に爆発的に増えたイタリアでも見られた現象である(外出が厳しく制限されたロックダウンの期間、ダウンロードできる電子版『ペスト』がベストセラーの一角に躍り出たとのことだ)。

 カミュの『ペスト』は、ナチズムと戦う欧州のレジスタンスのアレゴリー(寓意)であるが、「アルジェリアのオランで1940年代にペストが発生、都市封鎖となる・・・」という設定だ。

 カミュは執筆にあたって、1720年にマルセイユを襲ったペスト大流行に関する資料を大いに参考としたことだろう。古代や中世のペストの話とは異なり、18世紀初頭の出来事であるので、かなり正確な記録が数多く残っている。

ペスト発生が疑われる船に甘い措置

 1720年のマルセイユも都市封鎖となった。ただし、人と人の接触を制限して感染を防ぐためのロックダウンではなく、感染者が死に絶えて感染が止むのを待ち、それまではマルセイユ市民を一人も外に出さない、という非情な措置であった。治療といっても瀉血や浣腸しか存在しなかった(モリエールが劇の中で批判、揶揄している医術である)のだから、フランス王国全体にペストを広げないためにはやむを得ない決定だった。

 オリエントや北アフリカとの交易で栄えていたマルセイユは、ペストが中東でしばしば流行していることを十分に承知していたので、かなり厳しい防疫体制を敷いていた。

 マルセイユに入港しようとする船はまず、検疫当局に証明書を提出せねばならない。

 寄港地でペストが発生していなかった、との証明書を提出できる場合は、入港が許可され、乗員と貨物は海に面した港の隔離施設で一定期間を過ごす。寄港地でペストが発生していた、あるいは航海中にペストが疑われる病死があった場合は、沖合の岩だらけのジャール島に停泊し、より長い検疫期間を過ごさねばならない。

 1720年の5月25日、レバノンから高価な絹織物や木綿を運んできたグラン・サン・タントワーヌ号がマルセイユに帰ってきた。10カ月の航海中、船中で9名が病死したことを船長のシャトーは検疫当局に包み隠さず報告した。ペストを疑って然るべき状況であったが、同船は入港を許され、乗員と貨物は港の隔離施設で検疫期間を過ごすことになった。

 こうした甘い措置を誰が決定したのかは不明であるが、マルセイユ市の第一役人(市長に相当)エステルの関与が強く疑われる。グラン・サン・タントワーヌ号の積荷には30万リーヴル(900万ユーロ相当)の価値があり、有力な商人であったエステルもこれらの商品に投資していたのだ。商都マルセイユは商工会議所の会頭によって治められていたようなものだった・・・。