2017年、兵庫県知事選挙の際のショット

 急逝したコラムニストの勝谷誠彦氏。これまで2回にわたって、勝谷氏の追悼記事を綴ってくれた世論社の代表取締役・高橋茂氏が、今回は勝谷氏の政治の世界との関りについて手記を寄せてくれた。言論人として八面六臂の活躍をしていた勝谷氏はなぜ政治家になろうとしたのか。高橋氏による、勝谷氏追悼記事の最終章をお届けする。(JBpress)

2000年の長野県知事選挙

 勝谷誠彦が政治家になろうと思ったきっかけはいくつかありそうだ。勝谷が畏れ愛する母の家系では、長野県の諏訪町長だか諏訪村長をしていたという話は本人から聞いたが、本当かどうかわからない。しかし、政治家の血が流れているのは間違いないようで、母の遺言「政治家と宗教家にはなるな」にもうかがい知ることができる。

 勝谷が初めて積極的に関わった選挙は、私と一緒に田中康夫氏を応援した2000年の長野県知事選挙だった。それ以前にも仕事柄政治家と関わることはあったかもしれないが、長野県知事選挙についてはいくつかの媒体で以下のように語っている。

「8月15日の雨の降っている日に、田中さんが俺の事務所を訪ねてきたんだよ。それまでは仕事では関わることがあっても、個人的に親しいというわけではなかった。その田中さんが『今度の長野県知事選挙に出ようか考えているんだけど、どう思う?』って聞いてきたんだよ。これには驚いた」と。

 責任感の強い勝谷は、なんとか田中さんを勝たせたいと、ライターとしての発信力を使ってあの手この手で支持を広げようとした。田中支持を表明した茅野実八十二銀行頭取への嫌がらせで、街宣車による妨害があったと聞けば、「八十二銀行を応援するために、全国からの1000円預金を呼びかけよう」と言い始めた。また、かなりの種類と枚数の怪文書が撒かれていると聞くと、「怪文書をネットで晒しちまえ」と提案した。

 八十二銀行への預金呼びかけは、かえって銀行業務の煩雑さを呼ぶということからボツとなった。怪文書を公開する方法も「そんなの考えられない」と選対本部でボツになりかけた。そのとき長野県出身の私に、田中陣営の選対から「高橋さん、勝谷っていう頭のおかしな人が変なこと言ってきているから、相手してやってもらえないかな」という連絡があった。私はさっそく勝谷に連絡した。「面白そうだからやろうよ」と。これが私と勝谷の出会いだ。そしてできたのが『怪文書図書館』だった。詳細については割愛するが、田中候補に向けられた怪文書をすべてネット上で公開してしまうという手法は、ネットだけではなく地元紙にも掲載され、リアルに県内で話題になっていった。