選挙は田中康夫氏の勝利となった。私は開票待ち会場で勝谷と初めて会い、選挙結果が出てから共に祝杯をあげた。それからは、面白そうな選挙があると「あの選挙はどうなんだろう」と酒の肴に話が弾んだ。

代案を出せ!

 2009年7月に上梓した『代案を出せ!』(扶桑社)の表紙デザインでは、勝谷としては珍しく、スーツにネクタイ姿でタスキをかけた写真が使われている。また、この宣材で、勝谷がのぼり旗を固定した自転車を漕いでいく姿を、何故か私が動画に撮った。

立候補者の選挙ポスターのような写真を表紙に使った『代案を出せ!』(扶桑社)

 この『代案を出せ!』で示された政策は、勝谷の有料配信メール『勝谷誠彦のxxな日々。』の読者と勝谷との共同作業で作られたものだった。

 そのすぐ後に政権交代が起こり、民主党が政権を取ったこともあって、政治的な発言が多くなっていった。

「勝谷出馬か!?」のガセネタでスイッチ

 2013年には、「勝谷誠彦、兵庫県知事選挙に出馬か」という誤報が出た。これは朝日新聞の記者が、どこからか出てきた出馬情報の裏を取りに行ったときに、勝谷がまんざらではなさそうな返答をしたために、記事となって出てしまったのだ。大阪の読売新聞記者が、その日のうちに東京半蔵門の私の事務所に取材に来たが、私は勝谷からそんな話を聞いていなかったので、「そんなの全く無いですよ」と答えた。あとで勝谷にその話をすると「ごめんごめん。朝日の記者にも読売にも迷惑かけちゃったな。謝らなくちゃ」と言っていた。

 しかし、このときに何かスイッチが入ったのではないかと私は感じた。「兵庫県知事はアリだ」と。このころは、まだテレビやラジオなどに出まくっていた時期だったが、医者になれなかった劣等感を持ちながら、作家として賞が取れない焦りが膨らんでいく中で、「兵庫県知事」という道は自分が進むべき道なのだということをに開眼したのではないかと思えた。

 このとき私は、勝谷から「今回は出る気まったくないけど、いずれはアリかもね」と聞いている。確かにそのときは「そんな話は無いだろうな」と思ったが、出たら勝てるのではないかと漠然と感じていた。

鬱により一旦消えた政治家への夢

 その後、2015年に鬱を発症し、完全に政治家への夢は消えたかに見えたが、半年ほどで復活してからは、彼の中で夢が膨らんでいった。選挙のたびに応援演説を頼まれ、自民党でも民主党でも「こいつは良い政治家だ」と思えば、どこへでも飛んでいってマイクを握った。その都度、「この間さあ、誰それの応援に行ってきたんだけど、俺って演説の天才だと思うよ」と自慢していた。私は、勝谷が演説の天才かどうかは置いといて、「こいつは、そのうち本当に出ちゃうんじゃないか」と思うようになった。

兵庫県知事選挙出馬

 2016年の秋頃。勝谷が突然「話があるんだけど」と私の事務所にやってきた。彼の自宅マンションからは5分ほどの距離だ。

「俺、兵庫県知事になろうと思うんだ」といつもの早口でまくしたてた。なんとなく気がついていた私は「へええ」と驚いた顔をしながら「なんでまた」と聞くと、いかに自分が兵庫への思い入れが強く、自分であれば今よりもずっと良い県にできるということを演説のようにしゃべりまくった。

 そして、年が明けて順調に準備が進み始めたころ、勝谷が四ツ谷の居酒屋で田中康夫さんに出馬の報告をしながら呑んでいたところに、安倍晋三首相から電話があった。兵庫県知事選挙への出馬を延期してくれないか、というお願いだった。知事選立候補に向けて、灘高校の後輩だった西村康稔衆議院議員(自民党総裁特別補佐)に報告し、安倍首相にも励ましのことばをもらっていたが、5選目を見送ると見られていた現職が突然出馬表明し、自民党は現職を推薦しなければならなくなったため、安倍自民党総裁としては勝谷支持とは言えなかったのだ。

 安倍首相が第一次政権で失脚したあと、故三宅久之氏の仲介で故やしきたかじん氏と3人で会い、そこから親交を深めていた勝谷にとって、安倍首相からのお願いを突っぱねることはできず、選挙に出ることをいったん諦めた。

 このとき、直後に私に電話をかけてきて、「今さ、田中さんと呑んでいたんだけど、安倍さんから電話があって、選挙に出るのをやめてくれって言うんだよ」と興奮気味にまくしたてた。驚いた私は「で、なんて答えたんだよ」と聞くと、「だって、俺と君が初めて会ったきっかけを作った田中さんと呑んでいたときに、首相から電話があったんだぜ。これは運命だよ。やめるって言っちゃったよ」と言うので、私は椅子から転げ落ちた。

 この後、わずか二週間で勝谷は「やっぱり選挙に出る」と言い始め、安倍首相に報告をし、出馬の準備を始めた。安倍さんが「私の立場では応援はできませんが健闘を祈っています」と言ってくれたと、嬉しそうに知事選前の講演会で話していた。しかし、ときはすでに4月下旬。7月2日の選挙までには2カ月強しか無く、さらに悪いことには、一度出馬をやめたことによって、最初に準備していた最強チームは解散し、勝谷の他は私とマネージャの田井地君しかいなかった。