前回のコラムに対して、「教育勅語と条約改正は全く関係ない。歴史勉強してないんじゃないの?」という、これまた分かりやすい、机の上で紙のお勉強ばかりしてきたコメントが入っているのを目にしました。
「これは格好なのが飛び込んできた」とニヤニヤしてしまいました。
確かに私は音楽屋で、大学で修めたのは物理でしかなく、教授屋として歴史を語る資格もつもりもありません。
しかし、今回は中学高校生が試験向けに暗記するような歴史ではなく、現実に生きられた維新前後から昭和初期に至る日本の外交に即して、1つの「反例」を挙げておきたいと思います。
初めに一般的な話ですが教育勅語と条約改正は「関係がな~い」とは、頭を使う職業の人なら断言しないのが普通です。
と言うのは、「いや、かくかくしかじかで、1つ関係がありますよ」と反例を出されてしまうと、そこで主張が崩れてしまいますから(笑)。
数学では背理法の論理で矛盾を導いたりします。歴史を、教科書に書いてある事項の暗記とかで捉えると、とんでもないことにしかなりません。そうじゃないんですね。
現実に人間が生きた足跡があり、そこから政治も経済も立ち上がってくるのです。明治22~23年、大日本帝国憲法ができ、教育勅語が制定された。
実際、それは法に優先する制度として奉安伝、ご真影などとともに形式化を進み、赤紙が来たら喜んで子供を戦地に送り出さないと白眼視されるというメンタリティを作り出します。
こういうものは反例を見ておけばよいでしょう。数週先に扱いますが、明治11年に大阪堺の商家に生まれた与謝野晶子(1878-1942)は明治38(1905)年1月、日露戦争で旅順に出征していた弟に対して
「君しにたまふことなかれ」
と歌いかけています。広く知られた事実でしょう。
1890年10月に教育勅語が発せられたとき、与謝野晶子は数えの13歳ですでに物心がすっかりついていた。
つまり彼女は「教育勅語世代以前」に属するわけで、その当然の個人感情で「大阪の商家に生まれた弟よ、両親は人殺しをしろと教えたましたか? 決して死んだりしてはダメ」と歌っている。
当たり前の個人感情です。この時期、教育勅語や奉安殿、ご真影はまだ十分制度化されていなかった。
ところが日露戦勝後の1910年頃から、にわかに奉安殿の建立と最敬礼その他、国民教化の擬似儀礼が制度化されていきます。それからたった35年で、1945年8月の滅亡に至る道程が歩まれてしまった。
これに先立つ1880年代、日本は、あるいは世界はどのような状況にあったのでしょうか?