「産経新聞」は平成26(2014)年5月1日および15日付で、東京大学の「軍事忌避」について報道した。それによると、昭和34年の評議会で軍事研究を禁止し、42年には外国軍隊からの資金供与を禁止したとされる。
評議会決定の結果であろうか、旧帝大で東大のみが自衛官の研究科(修士課程および博士課程)への受け入れを拒否してきた。
筆者は拙論「東大卒に率いられてしまった日本の不幸 防大卒よ井の中から飛び出て日本再建の先兵となれ」(2012.1.13)で、安全保障が国家の基本でありながら疎かにされており、各官庁の東大卒幹部職員は自分が所属する省庁の利益確保に血眼で国益を毀損していることなどを論じた。
日本の官僚組織は「省益あって国益なし」と批判されてきたが、そうした状況を率先してきたのは多くが各省庁の幹部となった東大卒官僚たちであった。内閣人事局の発足で、省庁横断の人事や卒業年次にとらわれない柔軟性ある人事で、国益に資することを期待したい。
最高学府にこそ安全保障講座が必要
安全保障は国家存立の基本である。外交で安全が保持できれば言うことはないが、現実世界はむしろ軍事で安全が担保されていると言っても過言ではない。その観点からは日本の安全や平和は憲法が担保しているというのは少し違うのではないだろうか。
平和憲法という美名のもとに自分の国を自分で守ることをしてこなかったから、今日のように自国の領土である尖閣諸島などが侵犯されても十分な対処ができないでいる。
静かな環境で教育や研究ができればそれに越したことはないが、そうはいかない現実が安全保障分野の学問・研究を必要としている。どの国でも安全保障が最大の関心事であり、最高学府には安全保障や軍事に関する講座があるのが通常である。
軍事は戦争を前提にしており、そうした自衛官を受け入れるのは、およそ学問の府には似合わないという考えもあろうが、3つの意味において間違いである。
1つは自国の安全は自国で守るという意識の欠如である。敗戦直後の日本は食べることで精いっぱいで、相撲は他人にとってもらってきた(すなわち国防は米国に依存してきた)。これは例外的なことで、本来独立国家としてあるべき姿ではない。
2つ目は軍事についての理解不足である。古来勢力均衡(バランス・オブ・パワー)という考えがあるが、特に核兵器が出現して以降の冷戦構造は端的にそのことを示していた。今日、軍事は戦争を起こさない抑止力として機能する面が大きく、そのためにも勢力均衡が不可欠となっている。大学は学問的な視点から追求する任がある(のではないだろうか)。
3つ目は安全保障に直接的に関わる自衛官ではあるが、安全保障などに関わる講座がない環境下で、純粋に科学技術や研究管理手法などを学ぶことを目的にした自衛官を忌避する間違いである。