2013年の10月ごろから、不正出血が止まらない。医師の検査を受けたが異常はなかった。止血剤を飲むと出血は止まる。しかし薬を飲んでホルモン周期をつくっている状態だ。

 南相馬市に帰りたいと思いますか、と私は尋ねた。久恵さんは言った。

 「帰りたいとは思うけど・・・」

 でも、と言葉を継いだ。

 「道路標識で『南相馬市まで何キロ』という表示を見ると、頭痛がしてくるんです」

 2011年春に一時帰宅したとき、故郷の沿岸部はまだ津波に破壊され尽くしたままだった。住宅街が消えてしまっていた。漁船や住宅のがれきが荒野を埋めていた。

 以来、怖くて津波の映像を見たりすることができない。偶然ネットで津波の映像を見てしまった後は、悪夢になって出てきた。夏に山形で海を見に行ったとき「ザブーン」という波の音に怯えている自分に気がついた。精神的なトラウマが消えないのだ。

体に染みついている放射能の恐怖

 放射能汚染のことはどうなのだろう。

 「原町(南相馬市)に帰っても『病気になっちゃうの?』とか考えてしまって気が狂いそうですよ・・・食材が心配でご飯も作れない。水だって(ボトル入りを)買わなくちゃいけないし・・・」

山形で避難生活を送る渡辺さん一家(筆者撮影)

 2人とも、南相馬のことがニュースになっていても見ない、という。考えることすら疲れた、という。

 渡辺さんは、電気工事の仕事で福島第一・第二原発で働いたことが何度もある。講習を受け「放射線取扱主任者」の資格を取った。部下の「放射線管理手帳」を預かり、被曝量を管理していた。法律が決める基準に近づくと、作業は許されなかった。

 最も被曝の危険が高い原発内の「D区域」で作業をした時のことを覚えている。スキューバダイビングのようなマスクを顔に着け、雨合羽のような防護服を着た。袖や裾の隙間はビニールテープで封印した。そんな作業の年間被曝許容量が20ミリシーベルトだった。