ロシアによるクリミア併合(「統合」)は多くの識者の予想をはるかに上回るスピードで実行された。
筆者の周囲でも、3月半ば、住民投票実施が決まった段階でも独立が落としどころではないかと想像する声が少なくなく、ロシアが本気で「回収」しようとすることは想定されていなかったように思う。ウクライナ東部の情勢も予断を許さず、緊迫の度合いがますます高まりつつある。
筆者はソチ五輪について記した前稿「戦争と平和のソチ・オリンピック」の中で、ソチを点としてみるのではなく、面として考える重要性を指摘し、ロシア近代におけるフロンティアとしての黒海沿岸地域の意味について触れた。
その意味では、五輪の直後に起こった今回の事件は、たとえ事態が想定を超えた流動的なものであり、判断が勢いに流されたものだとしても、ウラジーミル・プーチン大統領の歴史観に忠実に沿った出来事と言えよう。
JBpressでは藤森信吉氏のウクライナ現地情勢から始まり、様々な角度からこの問題について取り上げている。筆者も先週の杉浦敏広氏の簡潔かつ的を射る解説に倣い、200年の大きな地域変動、連動するフロント、繰り返される歴史の3点について指摘しつつ考えてみたい。
熱狂の2つの意味~環黒海の歴史
今回のクリミア併合は、新旧2つの歴史に対するロシアの立場を明確にした。それは、黒海沿岸がロシアにとっての歴史的フロンティア=特別な場所であり、でありながらソ連崩壊という悲劇によって失われた場所であるということである。
グレート・パワーとしての地位の喪失のトラウマを拭うためにクリミアは格好の舞台となってしまった。
例えば、黒海に関する優れた概説書である米ジョージタウン大学のチャールズ・キング教授による『黒海』では、ギリシア、ビザンツ、オスマンの後を受けて18世紀に本格的に南下して黒海北岸を占領したロシアが、現地のトルコ語地名をギリシア風の呼び名に変えていく様子が描かれている。
戦略的重要性もさることながら、いわばヨーロッパ・パワー、ひいてはグローバル・プレイヤーに変貌するロシア近現代の記憶が詰まっている地域である。
この地域では住民の離散、集住、強制移住、国外移住などが200年間の間にたびたび繰り返され、クリミア後、とみに注目が集まる沿ドニエストル地方も含めて、工業化や民族移動など、ロシア近代史における様々な矛盾が渦巻いている。
また、玄関口、保養地、出港地など様々な機能をクリミアが果たすことで、黒海はロシアと世界を結んだ。