先日、「たかじんのそこまで言って委員会」(2月2日放映)に出演した。テーマは、「戦後の日本のリーダーを総チェック」ということで、経済や外交など数分野で歴代総理のうち誰が一番優れていたかを判定しようというものであった。
これに触発されて、今回はなぜ保守は強いのかを戦後総理の実績から考えてみたい。
高度経済成長を達成した池田勇人
まず誰の経済政策が優れていたかである。1人に絞るなら、やはり池田勇人であろう。池田が首相に就任した1960年党当時、日本の経済学界では、大来佐武郎や都留重人らが力を持っていた。彼らは「安定成長論」の立場に立っていた。政界でも佐藤栄作や福田赳夫らが同様の立場に立っていた。
サンフランシスコ平和条約の調印で一応の主権回復を成し遂げた日本は、朝鮮特需などもあって1954年か57年にかけて神武景気と言われる好景気が続いた。56年の『経済白書』は、「もはや戦後ではない」と述べ、戦後経済の復興を宣言するほどであった。こうしたこともあって、今後はそれほどの高成長を期待できない、というのが安定成長派の見方であった。
だが池田首相の経済ブレーンであった下村治は、「日本は11%の経済成長率を達成できる」として、大来、都留らと大論争になった。池田首相は、この下村理論を採用し、所得倍増計画の実行に踏み切った。
その結果、所得倍増を計画の10年よりはるかに速い4年で成し遂げ、日本のGNPを世界第2位に押し上げた。当時、三種の神器と呼ばれた冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが各家庭に飛躍的に普及し、高校への進学率も1950年には4割強だったものが、65年には7割強にまで高まっている。
もちろん公害等、負の側面もあった。しかし、世界第2の経済大国への躍進や64年の東京オリンピックの成功は、日本が国際社会に大きな地歩を築いたものとして、多くの日本人に誇りと自信をもたらした。
平和条約締結にこぎつけた吉田茂
第2次世界大戦を連合国としてともに戦った米ソであったが、戦後は資本主義陣営と社会主義陣営が鋭く対決する冷戦構造が形成されていた。日本でもこの冷戦構造の影響を色濃く受け、アメリカなど資本主義陣営との講和を優先させる単独講和(実際には52カ国が署名しており多数講和と言うべき)か、ソ連や中国も加わった全面講和か、で大きな論争が巻き起こった。