震災の当時、逆境の中で身を挺して患者を守る、様々な英雄が出現しました。しかし一方で、家族の心配や情報の不足など、様々な理由から「英雄にならなかった人々」も大勢います。そのような人々にとっての被災地とはどのようなものだったのでしょうか。
放射線は「見えない恐怖」だったのか
東京下町→ロンドンと移動してきた私にとって、相馬に入って一番嬉しいことは空気が美味しいこと、星が見えることです。オリオン座が見えるのがやっと、というロンドンに比べて、こちらでは住宅地でもほぼ毎日オリオン大星雲とプレアデス星団(すばる)がはっきり見えます。暗くなってから帰宅する楽しみでもあります。
「震災直後はもっと綺麗でしたよ」
と、当時から勤務されているスタッフに聞きました。
「夜が真っ暗でしたから。外に出て『きれいだなぁ』と思ったのを覚えています」
綺麗な空と美味しい空気。その中で放射線汚染、という無味無臭の被災がいったい本当に想像できたのだろうか、と疑問に思いました。
当時相双地区に勤務されていた医師の方々に聞くと、実際のところは放射能との戦いというよりも、より切実かつ物理的な問題だったようです。
「(原発から)30キロが屋内退避になると、50キロ圏には水・食糧・情報、何も入ってこなくなった。情報を持っている公務員が先に避難をした、という噂も流れて不安が飛び火してね。15日の朝に爆発があると病院幹部が完全に浮き足立ったんだ」
この時点で相双地区の人々の情報源はテレビのみでした。しかし相双地区の状況は全くと言っていいほど報道されない。窮状を政府や報道に把握されていない、という不安が50キロ圏内の人々が「見捨てられた」と感じるには十分だったと言います。
「(地震から)3日くらいは何の情報も入りませんでしたね。情報規制、というより、報道にも『圏内に入るな!』っていうかなり強い命令が出ていたんじゃないですかね。爆発の直前までうるさいくらいだったヘリコプターの音が、爆発当日から一切なくなりました。シーンとして、『あ、何か今日は静かだなー』と思っていましたから。面白いくらい報道関係は入ってこなかったですよ」