今回は、日頃あまりお話ししない、芸術人としての私の「手の内」を少しご紹介してみようかと思います。「トリスタンとイゾルデ」の舞台で私が何を雛形に考えているか、という種明かしでもあります。今週末の土日、慶応義塾での本番も、コレで準備して実行するものです。
芸術家は陳腐な二番煎じになってしまうと、かなりキビシイものがあります。
常にイノベーションが求められる。あいつはいつも違うことをする、とみんなに思ってもらう必要がある(面)がある。もちろん、基本的なところを押さえるのも大事なんですが・・・。
ここ四半世紀ほど、私も芸術屋の看板を出しており、次はあいつは何をやるのかね、的なご期待を頂く面があると認識しています。
逆に言えば、その期待を裏切らぬよう、正確に、先の読める「期待」を裏切り続ける、という必要があるわけですね。
突飛なことをする、ではなくて、非常に慎重かつ正確に、別の仕事を展開していく。
Think different、別の考え方で行く、というキャッチフレーズがありますが、これを私がどんなふうに地でやっているか、考えるヒントという意味でもご紹介してみたいと思います。
今回の「トリスタンとイゾルデ」私の発想の根は、実は「前方後円墳」にあるのです。
「前方後円墳儀礼」から考える「喪」
例によって突然話が飛びますが、日本人って結局、土着の迷信気質を離れないと思うんですね。と言うのは夏になると怪談番組が視聴率を取る、稲川淳二のコンビニ本もよく売れる、これムスリム社会では見られない現象です。
宗教の教義とは別に、私たちの生活感情の中には、様々な形で命とか、親の霊とか、そういうものを感じる端緒があると思います。日本人の生活感情の中には、善し悪しとは別に様々な「信心」のきっかけがある、それを念頭に、教会という舞台で物事を考えてみました。
先に挙げたアンデレ教会での「トリスタンとイゾルデ」上演の写真を見ていただくと、床が見えている部分の形が「鍵穴」になっているのがお分かりいただけると思います・・・。
そうなのです、実は、キリスト教徒である私が、自分が所属する教会で上演しながら、舞台の雛形として「鍵穴型」つまり「前方後円墳」の形を念頭に置いているのです。
古墳をイメージしていただくと、周りに何がありますか・・・?