福島第一原発事故を逃れて福島県南相馬市から脱出した「原発難民」の再訪記を再開する。2011年夏に山形県、群馬県、埼玉県の避難先で会った避難民6人のうち、2人が山形県の避難先にとどまり、2人が南相馬市に戻り、2人が「避難先よりは近いが、3.11前の家よりは原発から遠い場所」に移ったことは前々回(「3歳の子供を連れて福島に帰る決意をした理由」)書いた(2013年6月現在)。

 取材のたびに、石谷貴弘さん(43)とはいつも南相馬市で会う(参照「『南相馬に単身残留』で引き裂かれる家族」)。そう書くと、避難民なのに矛盾するように思えるが、そうではない。奥さんと小学校3年生の三男は、放射能の影響を心配して山形県飯豊町で2年間避難生活を続けている(長男と次男は避難先で高校を卒業して就職、独立した)。石谷さんだけが、3.11前からの建築資材の配送の仕事を続けるために、南相馬市にとどまっている。つまり「単身赴任」ならぬ「単身残留」である。

 実は、石谷さんのように、子供の健康を案じて避難させ、奥さんは子供についていき、収入を維持するために父親だけが地元に残っている「単身残留家庭」は非常に多い。福島第一原発事故から2年半近くが経過し、そうした家庭への心身のストレスは限界に達している。石谷さんも、2012年末に胃潰瘍になって大量に内出血し、貧血で倒れた。

「体? もうダメだね」

 蒸し暑い夏の夕方だった。南相馬市の市営住宅の階段を上がった。石谷さんの家は3階にある。ドアを開けると、首にタオルを巻いた石谷さんが居間のテーブルに座っていた。顔が真っ黒に日焼けしている。

 「いや、疲れた。朝4時から仕事だったから」

 声が弱い。トラック配送の仕事だと思って「シフトが早かったんですか」と尋ねたら「頼まれて草刈りの仕事をした」という。「先輩」からの頼みだったので断れない。焼けるような炎天下に1日中立って、エンジン付きの草刈り機を回した。

 大変ですね。そう労うと、二カーと笑った。

 「いやあ、仕事しねえと生きていかれんし」

 いたずらっ子のような笑顔だった。

 「でも・・・疲れるね・・・」

 2012年末、倒れて入院したと聞いていた。体、大丈夫なんですか。そう聞かずにはいられなかった。