但野雄一さん(32)に出会ったのは2011年の夏、山形県米沢市だった。福島第一原発事故が起きたとき、但野さんは福島第二原発で働いていた。大混乱の道路を必死で運転して南相馬市の家に戻り、妊娠中だった奥さんの好実さん(25)を連れて、車で南相馬市を脱出した。峠を越えて中通り地方に行き、さらにもう一山越えて山形県米沢市にたどり着いた。しばらく文化センターの一室で4世帯同居の避難生活を送ったあと、避難者の宿舎として用意された13平方メートルほどの小さなビジネスホテルの一室に移り住んだ。私が但野さん一家に会って話を聞いたのは、そのビジネスホテルだった。6月に鳳真ちゃんが生まれたばかりだった。シングルベッドで親子3人が眠り、苦労してユニットバスで鳳真ちゃんを風呂に入れた。
2013年6月、但野さんにもう一度連絡を取ってみた。但野さん親子は、南相馬市の北隣・相馬市に住んでいた。福島第一原発からは40~50キロの距離である。原発からは、南相馬市よりは遠いが、避難先よりはずっと近い。線量は毎時0.2~0.3マイクロSv(シーベルト)である。3.11前の一般公衆の被曝許容限界年間1ミリSv(=毎時0.23マイクロSv)ぎりぎりである。
但野さんは、米沢市で仕事を探していた。が、なかなか見つからなかった。被災者の失業給付や東電からの仮払金、義援金でつないでいた。ガス欠寸前の車で走り続けるような日々に神経をすり減らしていた。
しかし、生まれたばかりの鳳真ちゃんの健康を考えると、南相馬市に戻ることはどうしても躊躇せざるをえないのだ。
「あんな線量じゃあ無理じゃないでしょうか。うちもヨメが妊婦でなかったらそこまで考えませんでした。妊婦や子どもは避難してくださいと地元で言われていたなんて4月になるまで知らなかった。避難してよかったと思います」
「みんな大人目線のことしか言わない。子どものことを考えてほしい。緊急時だから(年間被曝許容量を)20ミリSvに引き上げるとか、乱暴な話を言い出す。子どもも大人もみんな一緒で、20ですよ」
「こいつが歩けるようになって外に出すとなると、やっぱり(南相馬で暮らすことは)考えられないです」
そう言っていた但野さんが相馬市という「地元」に帰ったと聞いて、話を聞きたくなった。なぜ、何がきっかけで、より原発に近い場所に帰る決意をしたのだろう。鳳真ちゃんはどうしているのだろう。外で遊んでいるのだろうか。
指定された住所に車で行くと、田んぼの中にある白い2階建てアパートだった。チャイムを鳴らすと、但野さんがドアを開けた。2年前と同じように、長袖Tシャツを着ていた。やさしい目でにっこりと笑った。