みなさん、6月18日は「何の日」だかご存じですか?

 「海外移民の日」なのだそうです。つい最近まで知りませんでした。ブラジル在住の畏友、記録映画監督の岡村淳さんに教えて頂きました。

 1908年と言いますから明治41年、今からちょうど105年前の4月28日の穏やかな夕暮れの中を、当時としては大型の6000トン級客貨船である笠戸丸は、満杯のブラジル移民を載せて神戸港をゆっくりと出発しました。

笠戸丸の数奇な運命

 この笠戸丸は20世紀前半の国際関係史に翻弄されるように数奇な運命をたどります。

 建造されたのは1900年、英国でのことと言いますから、まさに20世紀とともに歩みを始めたことになります。当初はロシア帝国で客貨船として使われていました。

 ところが日露戦争の際に旅順港で被弾、創建5年目にして半沈座礁してしまいます。これを戦勝国である日本海軍が引き揚げて改修、新たに笠戸丸と命名して、最初に用いられたのは翌1906年、国策遂行されたハワイ移民646人を乗せての航行でした。

 「憧れのハワイ航路」は、実は日露戦争で被弾沈没したロシア船を造り替えてつくられたものでした。ロシア船あがりの笠戸丸としての最初の航海先は「パールハーバー」だった・・・歴史の事実とはときに皮肉なものです。

 さて、このハワイから戻ってきた笠戸丸が、次に就航したのがブラジル・サントス港行きの移民航海だったわけです。日露戦争終結後、第1次世界大戦前明治末期の日本政府が、どれだけ世界に漕ぎ出していくことに貪欲であったかを示すものと言えるでしょう。

 ちなみにこの当時、米国は排日移民法時代で、すでに米国に渡っていた日本人はさんざんな艱難辛苦に遭遇します。

 戦後68年を経過して、こうした記憶は今日の日本社会にほとんど残っていませんが、太平洋戦争に勝利するまでの米国にとって、日本はあらゆる意味で邪魔で目障りな存在だったこと、その地誌的要因は現在もしっかり残っていることなどは、沖縄米軍の問題を考えるうえで、私たちが再認識しておいてよいことかもしれません。

 ちなみに、これらと前後して1905年に日韓保護条約が結ばれ、翌1906年には韓国総督府が設置され、1907年の第3次日韓協約で朝鮮国軍が解体。

 これらを推進した伊藤博文は1909年に暗殺されますが、1910年、日韓併合が完遂されて、1392年から500年余り続いた李氏朝鮮は滅亡します。翌1911年「辛亥」の年に辛亥革命が起きて清朝も滅亡。