前回(「今年も飯舘にサクラが咲いた 飯舘村再訪(その1)~自然・動物」)に続いて、4月下旬、久しぶりに再訪した福島県飯舘村の報告を続ける。福島第一原発から放出された放射能汚染のために、村人約6600人が避難し、無人になっている高原の村である。
村についてずっと気になっていたのは、2012年7月に政府が村の中を3つの区域に「再編」したことだ。「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」という名前がついている。ただでさえややこしい原発災害の被害地域の名称が、ますますややこしくなった。一体何がどうなっているのか、村人にとってどういう意味があるのか。良くなったのか、悪くなったのか。村人とメールや電話で話はするのだが、実際に足を運んでみないとよく分からない。
結論を先に言えば、役所の呼び名が変わっただけで、村人の暮らしはほとんど変わっていなかった。村の大半は「居住制限区域」という名前で、以前のまま「出入りは構わないが、居住はだめ」という宙ぶらりんな避難生活を強いられている。
「避難指示解除準備区域」は福島第一原発から遠い村の北側にかたまっている。ここと「居住制限区域」は、申請・許可で企業の営業が認められるようになった。しかし実際に営業を再開しているのを見たのは郵便局1軒だけだった。
最も気の毒だったのは唯一「帰還困難区域」に指定された「長泥」集落(74戸、49世帯)である。「防犯」「汚染物質が持ち出されないよう」を理由に道路がバリケード封鎖されてしまった。地区の人々は自分の家に帰るのに検問を通らなければならなくなった。自由に人を連れてくることもできなくなった。つまり以前より状態が悪くなってしまった。
原発事故の直後から飯舘村をはじめ放射能雲が通った地域を取材してきた私の視点で考えたことを先に述べておく。政府の愚策は相変わらずなのだ。
(1)村に汚染をもたらした放射能雲が飛来した2011年3月15日、村人6600人と村外からの避難者千数百人は、無警告のまま村にいた。そして雨や雪として地面に落ちた放射性降下物にさらされた。つまり「被曝」した。その飛来と汚染を村人が初めて知ったのは3月20日夜。その後も4月22日まで村人に避難の指示は出ないままだった。村人の多くはそのまま生活を続けた。つまり政府の住民避難指示は1カ月以上も手遅れだった。村人にとっては「被曝なら、とっくにしてしまった」という感覚なのだ。だからその後どう区域をいじろうと「とっくに被曝してしまった」という「手遅れ」はそのままなのである。
(2)放射性物質は、小麦粉を素手でつかんで投げるように、ランダムに散らばった。役所が決めた「行政区画」の線引など、まったく無関係に汚染の濃淡が分布している。原発事故直後から、私は「原発から20キロライン」という直線や「南相馬市」「飯舘村」といった行政区域で被曝被害の線引きをするのは愚の骨頂であると指摘し続けてきた(拙著『原発難民 放射能雲の下で何が起きたのか』PHP新書、参照)。しかし相変わらず政府は「村内部の行政地区(集落)を単位に対応を決める」という誤りを続けている。その結果、帰還困難区域である長泥の外側にも危険なホットスポットが点在したままだ。本来は行政地区ではなく、汚染の濃淡で対応を決めるべきなのだ。
(3)集落をバリケード封鎖しても、住民に利益は特にない。より不便と苦痛が大きくなった。ボランティアや記者も立ち入りできなくなった。
高濃度の汚染地帯に立つガードマン
封鎖された「長泥」の集落に向かって車を走らせた。
集落に入る道路は4本ある。私は西隣の「比曽」という集落から長泥に入る県道を選んだ。
比曽も長泥も、どちらも村の南端である。つまり村の中でいちばん福島第一原発に近い。汚染の深刻さも大同小異だった。しかし比曽はそのままになり、長泥は封鎖されてしまった。どちらの集落も、拙著『福島 飯舘村の四季』(双葉社)の取材でよく来た場所だ。