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 4月23~26日、久しぶりに福島県飯舘村を取材で訪れた。福島第一原発から放出された放射能汚染のために、村人約5000人が避難し、無人になっている高原の村である。2011年3月の事故直後から1年間、取材で訪れるたびにその美しい自然をカメラに収めてきた。その結果は写真集『福島飯舘村の四季』(双葉社)になった。しかしここ半年ほど、私は政府関係者やアメリカの核施設の取材に忙殺され、村の取材に戻るチャンスがなかった。

 「今年もサクラが咲きますよ」。そんなおり、かつて取材でお世話になった村人から連絡が来た。東北の高原の村である飯舘村は、東京より約1カ月遅い4月下旬からサクラが咲き始める。私は村が「全村避難」という残酷な決定を受けた4月22日という日付を思い出した。その頃ちょうど村にいた私は、満開のサクラの下で、村人たちがバスや自家用車に乗って避難に右往左往する現場を見た。まるで戦時下の難民のような光景に、私は体が凍りつきそうだった。

 その後、事故から1年4カ月経った2012年7月、一部の地域で銀行や郵便局、ガソリンスタンドの営業は許可があれば認められるようになった。しかしもっとも深刻な汚染を受けた「長泥」集落は「むこう5年は帰宅が困難」と判断され、道路がバリケード封鎖されてしまった。

 今年もサクラが咲くと聞いて、私はいても立ってもいられなくなった。村はその後どうなったのだろう。人々は元気なのだろうか。カメラを持って、私は村を再訪した。飯舘村から川俣町、浪江町、南相馬市にも足を伸ばし、放射能雲の通り道になった町や村を回ってきた。

 汚染の数値は徐々に下がっていた。しかし危険なホットスポットはあちこちに点在し、広大な山野の除染もほぼ手付かずだった。人々は放射能に怯えつつ、以前より緊張が和らいでいるように思えた。放射能汚染という過酷な状況にでも、2年を経ると人間は「慣れる」のだと思った。しかし、それが「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは、私には分からなかった。

 福島市で東北新幹線を降り、レンタカーを借りた。東に向かって阿武隈山地の坂道を上る。約1時間で飯舘村に入る。もう何十回も通った道なので、カーナビなしでも行けるようになってしまった。普段と変わらず人々が暮らす福島市から川俣町を抜ける。コンビニも学校も工場も、まったく普段どおりの世界だ。見覚えのある神社が前方にあった。あそこで町村の境界を越えると飯舘村に入る。村はどうなったのだろう。暮らしは少しは元に戻ったのだろうか。

 しかし、期待は裏切られた。田畑は相変わらず雑草の草原になって枯れていた。ビニール温室はフレームが剥き出しだ。それが連なって、浜に打ち上げられた鯨の肋骨のように見える。ため息が出た。やはり村の主産業である農業は放棄されたままなのだ。