自民党が2009年総選挙で歴史的な大敗北を喫して下野した際、多くの小泉チルドレンと言われた政治家は消えていった。だが本来の自民党政治を否定し逃げ出した国会議員は、ほとんどいなかった。

 その理由は、いくつかあるのであろうが、大きな理由の1つは政党の体を成していたからだと考える。民主党や多くの新党と違って、自民党には、党綱領、党則が厳然として存在し、組織機構も整っていた、また運営のノウハウも蓄積されてきた。長年分厚く積み上げられてきた地方組織や後援会組織もあった。やはり老舗の政権政党だったということである。

真っ先に手を付けた新綱領の策定

 その自民党が、下野して真っ先に取り組んだのが新しい綱領の策定であった。

 それまでの綱領的文書は、1955年保守合同の際に策定された綱領や「党の使命」「党の性格」などの綱領的文書であった。

 当時、自由党、日本民主党という2つの保守政党が存在し、対立していた。一方、左翼陣営の社会党は、左派社会党、右派社会党に分裂していた。国際的には、アメリカを盟主とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営が激しく対立し、いわゆる冷静構造が出来上がっていた。

 この下で55年10月には、左右社会党が合同によって日本社会党が結成されていた。これに対抗するために、アメリカや財界の意向もあって、社会党に遅れること1カ月後の11月に保守合同によって自由民主党が結成されたのであった。いわゆる「55年体制」の成立である。

 「55年体制」とは、東西対決、冷静構造がそのまま日本に持ち込まれたものであったということである。それだけに自民党の「党の使命」では、共産主義の浸透と闘うことが第一の使命として明記されていた。

 だがソ連が崩壊し、東欧の社会主義体制が崩壊したことによって、東西冷戦は終結した。