総選挙が明日12月4日から始まる。16日が投票日だ。今度の選挙は、おそらく史上最多の政党数ということになるのだろう。なぜこんなに多数の政党ができてしまったのか。

 現象的には、民主党政権が政権運営に失敗し、小分裂が繰り返されたことが最大の原因であることは間違いない。だがそれだけではあまりにも皮相な見方だと思う。私は、その根底には、戦後、ほとんどの時期政権党であった自民党政治の弱体化があると考えている。

 例えば、みんなの党である。中心は、渡辺喜美代表と江田憲司幹事長だが、渡辺代表は自民党衆議院議員であった。江田幹事長も最初の選挙は落選しているが、自民党公認であった。その意味では、自民党から派生した政党である。

 日本維新の会も同様である。橋下徹氏が大阪維新の会を立ち上げた時、そのメンバーの多くは、松井一郎現大阪府知事をはじめ、多くが自民党所属の地方議員であった。合流した石原慎太郎氏、平沼赳夫氏など太陽の党のメンバーもすべてもともとは自民党議員であった。

 そのほか、国民新党、新党大地、新党改革も有力だった自民党議員が作った政党である。さらに言うなら、民主党が政権政党になりえたのも小沢一郎氏、羽田孜氏、渡部恒三氏、鳩山由紀夫氏ら、自民党有力議員が加わっていたことが大きかった。

 こうして見てくると、多党化の最大の要因は、自民党の崩れにあることが分かる。換言すれば、保守の混迷ということになる。

保守の混迷の前に革新の総崩れがあった

 混迷は保守の側にあっただけではない。その前に革新の総崩れがあった。今日の多党化現象の1つの特徴は、新党は乱立するがいわゆる左に属する政党の流れがまったくないということである。

 1970年代、80年代には日本社会党と日本共産党が革新の本家争いをするぐらいに、革新勢力は強かった。もちろんそれでも自民党には歯が立たなかったのだが。中選挙区制度では、それでも少なくない議席を獲得することが可能であった。

 しかし、ソ連・東欧諸国の社会主義体制の崩壊と東西冷戦終結により、革新勢力は致命的な打撃を受けた。日本社会党は事実上消滅し、日本共産党も長い停滞から抜け出せないでいる。革新勢力という言葉自体が、いまや日本の政治では死語になってしまっている。日本共産党の今回の総選挙政策を見ても、革新という言葉はまったく使われていない。