前回に続いて、しかし、天皇制とは切り離して宗教の話を続けます。

 日本の宗教というと、お葬式と法事くらいしか必要とされない、刺身のつまみたいなイメージで見ている人が多いようです。歳をとり、死を意識するようになると信仰に関心を持つ人も増えてきますが、一般に「静」のイメージがあります。

 しかし古来、宗教がみんなそうだったわけではありません。現代では穏健な宗教と見られている浄土真宗は、蓮如の時代から戦国時代まで反幕府・反大名勢力として強い戦闘力を持ち、大名を滅ぼして地域の覇権を確立したこともあります。

 織田信長ですら、浄土真宗には手を焼きました。現在の大阪城の位置にあった石山本願寺は織田軍の攻撃に11年耐え、信長は最後まで攻め落とすことはできず、和睦によって開城させるしかなかったのです。

ローマで神の祝福を受けたのは“大量殺人の指揮者”

 <宗教のあるところではどこでも、かならず善行が行われているのと同様に、宗教のないところでは悪が支配するものだと考えざるを得ない。>
(『ディスコルシ 「ローマ史」論』、ニッコロ・マキァヴェッリ著、永井三明訳、ちくま学芸文庫)

 

 ヌマ・ポンピリウスの時代にローマ人は信心深くなりましたが、ローマは多神教で、征服した敵国の神も大切にする度量の深さ、あるいはいいかげんさがありました。

 征服した国の神殿に兵士が赴き、祀られている神に「ローマに行きたいですか」と聞いたらうなずいた(ように思えた)という理屈で神様はローマに連れていかれ、以前と同じように大事にされました。一神教によく見られる、不寛容や排他性とは無縁であったようです。

 そうした宗教的度量の深さとともにマキァヴェッリが強調するのは、自分たちの「自由」を大切にするローマ人の姿勢が宗教心とリンクしていたことです。

 マキァヴェッリの言う“宗教”とは、今の宗教によく見られるような道徳的に生きて死んだら浄土(天国)に行けるといった教えを垂れる宗教ではなく、現世の名誉を重んじる性質の宗教でした。