今回は「物知り」というのは実はあまり頭が良い状態ではない、というお話から始めましょう。ネットワークの世の中になって、単純に何か「記憶している」ということの相対的な価値が大きく減ってしまいました。

情報化社会での「知恵者」の変化

 以前なら、何か耳にしたとき「あ、それは・・・」とトウトウと知識を述べる「生き字引」というような人がいて、またその知識が珍重されました。

 が、今ではそういう人は減ってしまったし、仮にそうでなくても「あ、ちょっと待ってください・・・」とその場でモバイルでネットにつなぎ、適切に検索すれば、知識情報だけならいくらでも出てくる・・・そんな時代になりました。

 さてしかし、ここで問題になるのは、今言った「適切に検索すれば・・・」という部分です。

 ネットで検索すれば、ヤフーでもグーグルでも、いろいろな「情報」が引っかかってきます。しかしまあ、ハッキリ言ってしまえば、最初に引っかかってくるような情報の大半は、ジャンクというか、ろくなものでないと思っておいた方が無難です。

 むしろ、信頼できる情報ソースを持つこと、さらには、その情報ソースが信頼できるものかどうかを当意即妙に判断できる能力の方が、今日のネットワーク情報社会では、はるかに重視されるようになっていると思います。

 少し前と、今とでは「知恵者」とされる人のタイプは明らかに変わってきたと思います。

「自分が何を知っているか」は「何を知らないか」と同義

 意外に強調されない事実を1つ記しておきましょう。書いてしまえばアホみたいな話です。

 「私はここまで知っている」とハッキリ言える人は「ココから先は知りません」と明確に言える人でもある、はずですね。言葉で書くうえでは。これ、間違いありませんよね?

 ここで考えていただきたいのです。「物知り」という人は「知っている」ということが大事になってしまう。そうすると、こういう人にとっては「知らない」というのは、ある種権威の喪失というか、恐怖の対象にもなってしまう。

 私の知る、幾人かの「物知り」の方の中に、普段は大変に温厚なのですが、ちょっとしたことで、自分が「知らない」という話になってくると、何と言うか、瞬間湯沸かし器のように逆上してしまう人がいます(その中のお1人は、そこそこ名前のある大学で長の字が付いているような気もします・・・)。

 まあ、すでにご高齢でもあるし、彼はああいう人だから、と皆な温かく見守るケースが多いと思いますが、率直に言ってあまり褒められたものではありません。