前回(「『信じられるクルマ』であることがスバルの証し」)の富士重工業と同様、ダイハツ工業もまた「寄らば大樹の陰」が、自動車メーカーとしての迷走につながってしまった企業だと言える。

 このダイハツの場合も「大樹」はもちろんトヨタ自動車なのは言うまでもなく、その歴史は富士重工業よりもずっと長い。関係がより深いだけに、トヨタの組織の混迷に引きずられて自らが依って立つところを見失ってしまっている。

 思い切った組織の仕組みと意識の切り換えなしに、この状態から「元気」を取り戻すことは困難だと思う。つい数年前までは、少なくともクルマの企画と造り込みには、それなりの「気合い」を感じさせていたというのに。

 ダイハツの技術組織の得意技(の1つ)は「パッケージング」である。1977年登場の初代「シャレード」の時から、コンパクトな外形寸法の中に「4人の大人が無理なく座って移動できる空間」の追求を続けてきた。

 例えば世界基準のコンパクトカーデザインを実現した初代「ヴィッツ」(輸出名は「ヤリス」)の空間設計を構築したキーメンバーの1人は、ダイハツからトヨタのNBC(ニュー・ベーシック・カー)開発チームに参加していた設計者だった(これはもう書いてもいい話だと思う)。彼を含めた設計チームと、実質的にこのプロジェクトのリーダーだった当時のトヨタの技術担当副社長、和田明広氏の、図面を挟んだ討議は、1回ずつは短い時間でも、極めて濃密かつシビアなものだったという。

 とはいえ、トヨタが決めたグループ全体の方針によって、今やダイハツは軽自動車と、そのプラットホームを基にしたコンパクトカーだけに開発資産を絞り込む状況に追いやられている。

 もちろん外形寸法の枠がきっちりと決まっている軽自動車において、ぎりぎりまで追い込んで「空間パズル」を組み上げる、という領域でダイハツの得意技は健在なのだが、いささか自由を欠く中で発想が縮こまってきた印象は否めない。

会社の意思決定に参画できない生え抜き社員

 日本限定の軽自動車市場という特殊な舞台で、スズキと熾烈な競争を繰り広げてきたダイハツが、一時、クルマの資質そのものを高め、同時に個性のはっきりした製品群を送り出すことで攻勢をかけたことを覚えている方も多いと思う。

「ダイハツの軽」の良質化の先陣を切った「ムーヴ」。2002年フルモデルチェンジしたモデル。こうやってカットモデルを真上から見てもクルマ全体の中に占める居住空間の大きさがよく分かる。ドアは90度まで開き、シートもこの時に「軽の常識」が変わった。(写真提供:ダイハツ)

 保守本流の「ミラ」、今や軽の中核商品である背高ワゴンの「ムーヴ」に加えて、それらのスタイリングバリエーションいろいろ、さらに大空間型の「タント」、そして「ネイキッド」「ミゼットII」「コペン」といった新しいジャンルまで、一気に展開した。しかもその中で、内外装の質感や見映え、特にシートの造りと座り心地を大幅に改善。安いから仕方ない、という軽の常識を打ち破ったのである。

 こうしたものづくりの成果は、販売台数の総量は拮抗しつつも、スズキに比べて上級グレード(つまり利益率も高い)の販売比率が高い、という状況につながった。