はじめに
本年7月10日、ビザなし交流で北方領土を訪ね、択捉島天寧村に近い丘の上から単冠湾(ヒトカップ湾)を望んだ。
濃い霧で全貌が見えない代わりに、昭和16(1941)年11月26日に、ここから真珠湾に向けて出撃していった海軍機動部隊約30隻が択捉島の雪景色を背景に投錨し、出撃準備に余念のない各艦の間を小型艇が忙しく行き交う姿を思い浮かべた。
私にとってビザなし交流は、昭和16年以来の日本を振り返る旅でもあった。
1 昭和16年11月
当時の連合艦隊の動きを振り返ってみたい。11月5日付大海令第1号により、12月上旬開戦の作戦準備が下令された。
11月17日佐伯湾の機動部隊旗艦「赤城」艦上で壮行会が挙行され、山本連合艦隊司令長官から、「征途を祝し成功を祈る」との訓示。
赤城は翌18日に佐伯湾を出港し単冠湾へ向かう。各艦は内地を出港と同時に無線封止とした。
「赤城」は22日に単冠湾に入港したが、空母「加賀」は水深が12~17メートルの真珠湾で使うための航空機用浅沈度魚雷100本と三菱兵器製作所の技術者を佐世保で積み、1日遅れて入港した。
空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)を含む30隻の艦船と搭載航空機380機からなる第1航空艦隊の指揮官等は11月24日に旗艦に集合、南雲司令長官の訓示で12月8日真珠湾攻撃を示達された。
前述のように機動部隊は翌11月26日朝、単冠湾を出港し一路真珠湾を目指す。浅沈度魚雷の最終点検を終えた技術者は加賀を離れるが、12月8日まで単冠湾で外出禁止とされた。
70年前、単冠湾の機動部隊には、日本の国運を懸けていよいよ米英と戦端を開く緊張と不安が交錯したであろう。
そして何にも勝って祖国のためにという真っ直ぐな使命感と日本男児としての矜持があったであろう。写真の士官たちの顔は淡々とした中に闘志を燃やしているように見える。
大東亜戦争の戦場で、また国内各地で軍民とも多数の命が失われたが、尊い犠牲に対する慰霊と感謝を忘れかけたのが今の日本ではないであろうか。
戦争はしない方がいいに決まっているが、なぜ日本は大東亜戦争を始めなければならなかったのか、日本人のすべてが、しっかり歴史を学び、真実を見極めなければならない。
マッカーサー元帥でさえ大東亜戦争は日本の自衛戦争であったと米議会で証言したにもかかわらず、残念ながら日本の学校教育では、我々の父祖は侵略戦争をした、悪いことをしたとしか教えない。
靖国神社はA級戦犯が合祀されているので行けないと、今年の終戦記念日も総理はじめ1人の大臣も参拝しなかった。散華された英霊に合わせる顔がない。