2009年8月30日の総選挙は民主党の優勢が伝えられ、政権交代が現実味を増してきた。一方、自民党はこのまま自壊してしまうのか。政界再編は起こらないのか・・・。

 政治記者として取材を30年以上続け、永田町で日本の政治を、またワシントンやニューヨークでは特派員として国際政治の最前線を観察してきた鈴木美勝・時事通信社解説委員にインタビューを行い、総選挙の結果とその後の政局を予測していただいた。(2009年8月5日インタビュー、取材協力=JBpress副編集長・貝田尚重、撮影=前田せいめい)

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 JBpress 自民党は歴史的使命を終え、壊れてしまったように見えるが。

 鈴木美勝氏 自民党の歴史的役割について分析すると、理念的には冷戦構造が破壊された時に終わり、国内政治的には1993年の細川政権誕生が「終わりの始まり」となった。実態的にも、森内閣退陣で基本的に終わっているのではないか。細川政権以降の自民党自壊の過程を仕上げたのが、小泉純一郎首相。地方の隅々の支持団体とのネットワークを含め、木っ端微塵に壊してしまった。

 そもそも、1955年の保守合同には2つの意味合いがある。敗戦国日本を国際社会に名実共にどう復帰させるかということ。さらに国民生活をどう豊かにしていくかという2つの軸があり、それによって成立した政党が国民政党・自民党であったと思う。

 岸内閣が1960年に新安保条約を締結し、西側陣営の1国として対米関係を密接にした形の位置付けをした。それは、吉田茂首相が追求してきた「軽武装国家」と基本的には同じだ。国家のプライドを大事にしながらも、実態的には「米国と同じではなく、片務的で仕方がない」という現実を受け入れた。

 もう1つの軸の「生活保守」については、池田内閣が「所得倍増」という形で実現していく。1964年の東京五輪で国際的に敗戦国日本が認知され、生活の豊かさを求めてレールを敷いた。

 ところが1960年代後半~1970年代初めになると、日本国内には急成長の歪みが生じ、自民党内閣は対応を迫られた。国際的にも大きな変化があった。中ソ対立激化のうまいタイミングを狙い、佐藤内閣は沖縄返還を果たした。しかしブレトンウッズ体制が事実上維持できなくなり、それにオイルショックが重なり、日本は対外的な関係で修正を迫られた。

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森内閣で実態的に終わった自民党〔AFPBB News

 JBpress 田中内閣以降、自民党は変わったのか。

 鈴木氏 田中内閣をはじめ自民党が「対外的な関係修正」の中心的な役割を担い、何とか対応していた。けれども、国民生活のレベルが上がると、質の問題が問われるようになる。公害が一段と深刻化し、地価高騰、狂乱物価が国民生活を直撃、コミュニティーが崩壊するなど、自民党そのものが「保守再生」を成し遂げなくてはならなくなった。

 そこに登場した大平正芳首相にはそうした問題意識が強く、ブレーンを活用して報告書を作らせ、1つの国の「形」をつくろうとした。しかし着手できないまま、この世を去った。

 それに目をつけて国の「形」が必要だと主張し、「保守再生」で局面を打開しようとしたのが、1982年発足した中曽根内閣だ。電電・国鉄民営化を含め、戦後の構造を「85年体制」に変えようとし、ある程度は成功を収めた。けれども、その後バブルが発生し、国民生活のスタイルが変わった。さらに言えば、日本の国民性そのものも変わってしまった。