孫権像

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?

事業承継に学ぶ点が多い、家業を繁栄させた3代目の19歳若頭

 呉は三国(魏・蜀・呉)の中でもっとも南に位置し、首都を建業(現在の南京)に定めていました。三国志で登場する孫権は、父、兄の後を継ぐ形で南方呉の支配者となっています。孫軍団を承継したとき、孫権はわずか19歳という若さでした。この理由は、父の孫堅と兄の孫策が、相次いで戦場で命を落としたからです。

 父の孫堅、兄の孫策の二人は豪勇かつ勝てる武将でした。しかし戦闘の最前線にいたことで敵から狙われ、父の孫堅は192年に死去、兄の孫策も200年に亡くなります。

 三国志の著者である陳寿は、3代目の孫権を次のように評価しました。

「身を屈して辱を忍び、才に任じ、計を尚び、勾践(こうせん)の奇英あり、人に傑れしものなり」(書籍『正史三國志群雄銘銘傳』より)

 勾践とは、中国の春秋戦国時代の越の王のこと。この勾践は、ライバル国である呉と闔閭(呉の王)を滅ぼした名君であり、越の名臣范蠡の奇策を活用したことでも有名です。陳寿は、呉の孫権が謙虚に学ぶ王であり、部下の才能を活用する力を持っていたと判断したのです。

マキアヴェリの『君主論』と、呉の孫権の共通点

 184年に起きた黄巾の乱でも、孫権の父の孫堅は討伐軍に参加しており、おおいに活躍しています。しかし孫堅(父)、孫策(兄)の相次ぐ死によって、3代目の孫権は、幹部に固く戦場での先陣を避けるようにいわれていました。

 呉の重鎮である張紘(ちょうこう)は、一度先陣を切った孫権を次のように諫めています。

「戦場で威を揮うのは武将の任であり、主将たる者の務めではありません」(書籍『正史三國志群雄銘銘傳』より

 父と兄の武勇から考えても、3代目の孫権にも勇猛な武将としての血はあったでしょう。しかし孫権に死なれると、孫家の血筋による軍団が崩壊してしまうことから、戦場での先駆けを周囲に固く禁じられていたようです。結果、孫権は統治型のリーダーとして自らの立場を固めていくことになります。

 父と兄は、戦場で武勇を見せて、果敢に切り込んでいくことで周囲を従えた現場型リーダーでした。逆に現場での行動を禁じられた孫権は、どうやって事業承継者として地位を固めたのか。そこには、マキアヴェリの『君主論』にも共通する、統治者あるいは事業承継者としての効果的なふるまいがあったのです。